西燕成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:42 UTC 版)
慕容泓は長安の前秦皇帝苻堅に、兄の慕容暐を送れば関中を去って前秦を侵さないことを約束した。苻堅は慕容暐を召し出して追及したが慕容暐が忠誠を誓ったために助命した。さらに慕容垂・慕容泓・慕容沖に降伏を促す手紙を書かせた。しかし慕容暐は同時に密かに慕容泓に使者を遣わした。その使者が言うには、大業を建てることにつとめ、苻堅が慕容暐を処刑したら皇帝を名乗るように、ということであった。慕容暐が死んで慕容泓が長安に進み、燕興と改元することで実質的に西燕が成立した。 西燕が成立して間もなく、慕容泓が法に厳しく、慕容沖の方が徳望があると信じて擁立しようとした高蓋などにより殺害された。死後、慕容沖によって粛宗の廟号と烈文皇帝の諡号が追尊された。
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