藤岡市民体育館
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藤岡市民体育館 | |
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施設情報 | |
正式名称 | 庚申山総合公園藤岡市民体育館 |
用途 | スポーツイベント |
収容人数 | 500名 |
設計者 | 久米建築事務所[1] |
施工 | 佐田建設・塚本建設・塚本工務店共同企業体[1] |
建築主 | 群馬県藤岡市 |
事業主体 | 藤岡市 |
管理運営 | 藤岡市 |
構造形式 | 鉄筋コンクリート[1] |
敷地面積 | 9,461[1] m2 |
建築面積 | 3,299[2] m2 |
延床面積 | 7,157[2] m2 |
階数 | 地上3階(一部4階)[2] |
竣工 | 1988年(昭和63年)3月20日[2] |
総工費 | 13億円[3] |
所在地 | 〒375-0024 群馬県藤岡市藤岡字南山2623-1[2] |
位置 | 北緯36度13分52.1秒 東経139度4分4秒 / 北緯36.231139度 東経139.06778度座標: 北緯36度13分52.1秒 東経139度4分4秒 / 北緯36.231139度 東経139.06778度 |
藤岡市民体育館(ふじおかしみんたいいくかん)は、群馬県藤岡市藤岡の庚申山総合公園内にある体育館。鉄筋コンクリート3階建てで、1階に武道場など、2階にアリーナ、3階にランニングコースや観客席(500席)がある[1][2]。2025年(令和7年)時点では株式会社築が指定管理者である[4]。
初代体育館は藤岡市中心部[3](藤岡市藤岡1567番地の4:座標)にあり[5]、現体育館の所在地から約1.5 km離れた場所に建っていた[6]。初代体育館は1972年(昭和47年)に完成したが[7][8]、1985年(昭和60年)8月12日に発生した日本航空123便墜落事故の犠牲者の遺体安置所・身元確認所として用いられ、2か月以上にわたって安置されていた遺体の悪臭が抜けなかったため[9]、庚申山総合公園内に移転新築する形で2代目となる現体育館が建設され、1988年(昭和63年)3月に完成した[3]。
歴史
初代体育館
初代市民体育館は、1971年度(昭和46年度)・1972年度(昭和47年度)の継続事業として、総額1億2936万円を投じて建設された[10]。1971年(昭和46年)9月18日に起工式が[11]、1972年(昭和47年)4月28日に竣工式がそれぞれ行われた[7]。それまで、藤岡市内では各種の屋内スポーツ教室・大会は市内の小中学校の体育館を利用して行われていたが、一層スポーツの振興を図る目的で市民体育館が建設されたのである[5]。同年3月25日には「藤岡市民体育館の設置及び管理に関する条例」(同月29日公布)と「藤岡市民体育館の設置及び管理に関する条例施行規則」(同月27日公布)が藤岡市議会で議決されている[12]。
また市民体育館の敷地内には1983年(昭和58年)に藤岡市武道館が設置され、剣道、空手道、柔道の教室開催や各種武道大会などに利用されてきた[13]。
日航機墜落事故と建て替え議論

1985年(昭和60年)8月12日、群馬県多野郡上野村の山中(御巣鷹の尾根)で日本航空123便墜落事故が発生、乗客・乗員524人中520人が死亡する大惨事となった[14]。この事故を受け、藤岡市は生存者4人の救出活動や遺体安置所、遺族控え所、ヘリポートなどとして学校や市の施設を提供し、事故後の対応には多くの市民が協力した[15]。犠牲者の遺体はヘリコプターで墜落現場から藤岡第一小学校校庭に運ばれた後、霊柩車で検視所となった藤岡市民体育館に搬送され、同月14日以降は群馬県警察の警察官や地元の医師・歯科医師らによる検視活動が行われた[15]。検視を終えた遺体は、市内の3県立高校(藤岡高校・藤岡工業高校・藤岡女子高校)の体育館にそれぞれ安置された[15]。市民体育館では10月5日まで安置されていた未確認の部分遺体29棺が出棺し、合同火葬されるまで[16]、事故発生から53日間にわたって遺体の確認作業が行われ[6]、一時は最大で254の棺が安置された[17]。
検視所としての利用が終了した後、市民体育館では業者による清掃、消毒、脱臭作業が行われ、同月14日まで密封された[17]。『上毛新聞』は同年10月12日付の紙面で、市民体育館は3高校の体育館とともに床の張り替え、消毒などの復旧作業を行った上で、同年11月始めから平常使用を再開する見込みと報じていたが[18]、同年10月27日付の紙面では、床の傷みが酷いため、同年中の使用は不可能とみられると報じていた[17]。実際には出棺式終了後も市民からの利用申し込みはなく、駐車場が使われているのみであり[10]、2か月近くにわたって遺体が安置されていたことから、建物には同年12月時点でも悪臭が残っていたという[9]。市民からは「建て替えなければ使用したくない」という声が複数上がっていたため、市は体育館を建て替えることを決断、同年11月18日には事故機を運航していた日本航空(日航)に要請書を提出した[10]。当時、体育館は1972年の建設以来老朽化が進んでいたこと、また利用者が増加したことで手狭になり、建て替えが検討されていた一方、藤岡市は財政難の中にあり、初代体育館の建設時の負債も残っていたという[19]。
この体育館建て替え問題にあたっては、市が日航に対し、当時約7億円と試算された建て替え費用のうち5億円の負担を請求したと報じられ、市民からは原因者である日航に援助を求めることはやむを得ないとする肯定的な意見が上がった一方、遺体確認作業や遺族の世話にボランティアとして奉仕した市民からは「上州人の心意気に水さすもの」と否定的な声も上がっていたが[19]、最終的には建て替えの方針が決まり、初代体育館は再び利用されることなく、1986年(昭和61年)9月に解体された[20]。
初代体育館の跡地には藤岡市民ホールが建設され、1987年(昭和62年)7月1日に完成した[21]。同ホールは小体育館を兼ね[22][23]、収容人数約800人の中規模ホールで、式典や芸術文化活動の発表などに用いられてきたが、老朽化、また2025年(令和7年)秋に開館する複合施設内の多目的ホールなどと役割が重複することから、閉館の方針が決まり[24]、開館から38年後の2025年9月30日をもって閉館した[25]。また、初代体育館跡の脇には御影石製の記念碑「日航機墜落事故遭難者遺体安置場所の碑」(高さ2.5 m、幅1.2 m)が建立され[20]、1986年(昭和61年)8月20日に除幕された[6]。この記念碑は、遺体確認作業や遺族の世話をしたボランティアの市民、医師会、歯科医師会員らが拠出した約150万円で建立されている[6]。
現体育館の移転新築
2代目となる新体育館(現体育館)については、いったんは初代体育館と同じ場所に再建することが決まり[26][27]、その規模は3340 m2の2階建て(1階2400 m2+2階940 m2)の規模と想定された[28]。その後の「市民体育館建設検討会」で、規模は床面積3678 m2とする方針が出されたが、後に同地は狭く、大型バスが入れないことが問題視されたのに加え[22]、藤岡市と群馬県が協議したところ、公園事業として市内の庚申山総合公園内に体育館を建設すれば[29]、公園内体育施設とみなされ[22]、国庫補助金と起債で建設費を賄うことができることが判明した[29]。
また新体育館は初代体育館よりスペースを広くすることでスポーツ関係者の要望に対応し、文化関係者の意見は初代体育館跡地に市民ホールを建設することで反映できると判断されたことから[22]、同公園内の第二駐車場付近に新体育館を移転新築する案が浮上した[29]。最終的には2か年事業で同地に新体育館を建設することが決まり[30]、新体育館は1988年(昭和63年)3月20日に竣工[2]、同月27日に開館した[3]。総工費は13億円で[3]、財源は国庫補助金約3億5000万円+起債約5億5000万円(以上はいずれも予算案成立当時の試算額)[31]、そして日航の負担した3億5000万円である[6][21]。この金額の根拠として、日航側は身元確認作業などで傷んだ体育館の原状回復費用、体育館が利用できなかったことで中止となった各種行事への補償、そして「世話になった市民へのお礼」の3点を挙げている[32]。1階は武道場(柔道場・剣道場)とトレーニングルームなど、2階はバレーボールのコート3面を有した大体育室[30]、3階は1周約200 mのランニングコース[30]と500人分の観客席という構成になっており、開館時は県内最大級の体育館と称された[3]。
なお2008年(平成20年)には市民へのアンケート調査の結果を受け、利用予約を希望する利用者は毎月、利用希望日の前月1日の朝7時15分から体育館窓口で受付順番の番号札の配布を受けることとなっているが、2021年(令和3年)時点で市民からは深夜の1時から3時に並ぶ状態になっているとして、藤岡市民で定期継続的に通年同じ時間帯で活動しているクラブは優先的に予約できる制度に変更することを検討してほしいなどといった要望が出されている[33]。
設備
現体育館は鉄骨鉄筋コンクリート造の3階建て、床面積6408 m2で[30]、初代体育館の約2.5倍の広さである[31]。
アリーナ部分
競技場は2階にあり、ステージ付きの48 m×36 mである[30]。
その他
1階に柔道場・剣道場、トレーニング室、小体育室が[22]、3階にランニングコースと観客席がある[31]。3階の中央は吹き抜けになっている[30]。
- 1階:武道場1(畳敷、310m2)
- 1階:武道場2(板敷、475m2)
- 1階:トレーニングルーム:220m2
- 小体育室:264m2
- 3階:ランニングコース(1周約200 m)[31]
- 3階:観客席(約500人分)
初代体育館
移転建て替え前の初代体育館の延べ床面積は2538 m2だった[22][30]。鉄筋コンクリート造で、床面積は約1700 m2(東西44 m×南北43 m)で、天井は吹き抜けになっており、東側中央部の正面玄関近くにホール、競技場の西側突き当たりにステージがあり、2階の南北両側が観覧席になっていた[35]。また玄関ホールの左右に管理室、トレーニングルームが、球技場の周囲にも控室6室、器具室2室があり、2階には2室更衣室があった[36]。トイレは1階に3箇所、2階に2箇所あった[37]。
初代体育館では新日本プロレスの興行が度々行われていた[38]。
日航機墜落事故の際、群馬県警察の身元確認班は更衣室を事務局・会議室・仮眠室として用いていた[37]。なお藤岡市文化協会は1978年(昭和53年)10月に第1回文化祭を市民体育館で開催して以降、毎年文化祭を同館で開催していたが、1985年は体育館が使用不能になったため、翌1986年(昭和61年)に会場を分散して実施している[39]。
交通アクセス
イベント
Bリーグに所属する群馬クレインサンダーズのアリーナの一つとして使用されている[41]。
脚注
- ^ a b c d e 群馬県土木部建築課 編「藤岡市民体育館」『群馬の建築』群馬県土木部建築課、1993年3月1日、33頁。NDLJP:13309545/33。
- ^ a b c d e f g 藤岡市 2016, p. 2.
- ^ a b c d e f 『上毛新聞』19871988年3月28日朝刊19頁「バレーの模範試合で完成祝う 藤岡市民体育館」(上毛新聞社)
- ^ 「指定管理業者の作業について」藤岡市、2025年6月20日。2025年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月6日閲覧。
- ^ a b 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編 1984, p. 395.
- ^ a b c d e 『上毛新聞』1986年8月21日朝刊20頁「日航事故の遺体安置所 記念碑を除幕 藤岡」(上毛新聞社)
- ^ a b 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編 1984, p. 522.
- ^ 藤岡市史編さん委員会 編 1997, p. 754.
- ^ a b 『読売新聞』1985年12月15日東京朝刊群馬讀賣第12版18頁「日航への体育館改築費5億要求 イメージダウンが心配 藤岡 奉仕の市民苦言 「名誉を守って」 純粋な気持ちだった せっかくの善意に水 市は「方針変更ない」」(読売新聞東京本社・前橋支局)
- ^ a b c 『上毛新聞』1985年12月4日朝刊17頁「藤岡市 「日航は5億円負担を」 体育館建て替えで要求」(上毛新聞社)
- ^ 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編 1984, p. 521.
- ^ 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編 1984, p. 513.
- ^ 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編 1984, p. 396.
- ^ 藤岡市史編さん委員会 編 1997, p. 502.
- ^ a b c 藤岡市史編さん委員会 編 1997, p. 503.
- ^ 『上毛新聞』1985年10月6日朝刊21頁「無念さに肩落とす遺族 日航機事故合同出棺式 未確認の29棺ダビ 事故再発防止に願い」(上毛新聞社)
- ^ a b c 『上毛新聞』1985年10月27日朝刊19頁「日航機事故 藤岡 市民体育館を〝お清め〟 悲しみにさようなら」(上毛新聞社)
- ^ 『上毛新聞』1985年10月12日朝刊19頁「深まる秋に線香の煙 落ち着き取りもどす上野村 県警現地本部15日にも撤収」(上毛新聞社)
- ^ a b 『読売新聞』1985年12月4日東京朝刊群馬讀賣第12版18頁「体育館新築の5億円請求 賛否の両論 藤岡 日航の償いは当然 心意気に水差した」(読売新聞東京本社・前橋支局)
- ^ a b 『朝日新聞』1986年8月21日東京朝刊群馬県版第11版21頁「日航機墜落事故の碑 藤岡で除幕式 市の対応後世に残す」(朝日新聞東京本社・前橋支局)
- ^ a b 『上毛新聞』1987年7月2日朝刊20頁「藤岡市民ホール 500人が完成祝う 日航関係者らも出席」(上毛新聞社)
- ^ a b c d e f 『上毛新聞』1986年7月9日朝刊1頁「藤岡市民体育館 庚甲山公園に建設 市が計画変更」(上毛新聞社)
- ^ 『上毛新聞』1986年7月10日朝刊1頁「市側の説明を受け入れ 藤岡・体育館建設検討会」(上毛新聞社)
- ^ 『上毛新聞』2025年2月28日朝刊1頁「市民ホール 9月末閉館 藤岡市、跡地は駐車場に」(上毛新聞社 深沢千尋)
- ^ 「市民ホールの閉館のお知らせ」藤岡市、2025年10月1日。2025年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月1日閲覧。
- ^ 『上毛新聞』1986年2月6日朝刊17頁「日航提示額を了承 体育館建設は現在地 藤岡市議会」(上毛新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1986年2月6日東京朝刊第12版群馬版「現在地に建て替え 藤岡市民体育館 検討会で決める」(朝日新聞東京本社・前橋支局)
- ^ 『上毛新聞』1986年2月6日朝刊19頁「日航 藤岡市へ体育館修復費3億5千万円提示 ジャンボ機墜落 市は「受諾」の線 議会報告経て回答」(上毛新聞社)
- ^ a b c 『読売新聞』1986年7月9日東京朝刊第12改版群馬讀賣18頁「藤岡市民体育館 市、建設場所を変更 「今さらなんだ」と反発も」(読売新聞東京本社・前橋支局)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1986年7月10日東京朝刊第12改版群馬讀賣18頁「市民体育館場所変更案OK 市藤岡の検討会」(読売新聞東京本社・前橋支局)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1986年7月10日東京朝刊第12版群馬21頁「藤岡市の新市民体育館 庚申山公園に建設 「検討会」 現在地にはホール」(朝日新聞東京本社・前橋支局)
- ^ 『朝日新聞』1986年2月5日東京朝刊第11版群馬版21頁「決着した藤岡市民体育館問題 市、承諾の方針 3億5千万円の金額 多い「妥当」の声」(朝日新聞東京本社・前橋支局)
- ^ 「過去に寄せられた意見・提言(令和3年4月受け付け分) > 市民体育館利用予約と小中学校体育館開放利用について」藤岡市、2021年4月13日。2025年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月6日閲覧。
- ^ 庚申山総合公園 藤岡市民体育館 (PDF) 群馬県藤岡市
- ^ 飯塚訓 1998, p. 30.
- ^ 飯塚訓 1998, pp. 30–31.
- ^ a b 飯塚訓 1998, p. 31.
- ^ “新日本プロレス「新春黄金シリーズ」第23戦1984年1月28日 群馬・藤岡市民体育館 試合結果”. 1984年 新春黄金シリーズ. プロレス試合結果データべース. 2017年5月9日. 2025年8月26日閲覧.
- ^ 藤岡市史編さん委員会 編 1997, p. 810.
- ^ アクセス・お問合せ 庚申山総合公園
- ^ 藤岡戦ホーム速報 群馬クレインサンダーズ Official Facebook 2014年11月29日付
参考文献
- 藤岡市制施行30周年記念事業藤岡市30年史編さん委員会 編『藤岡市30年史』藤岡市、1984年10月15日。doi:10.11501/9775066。NDLJP:9775066。
- 藤岡市史編さん委員会 編『藤岡市史 通史編 近世, 近代・現代』藤岡市、1997年3月31日。doi:10.11501/13238526。NDLJP:13238526。
- 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』(第一刷発行)講談社、1998年6月24日。 ISBN 978-4062092593。NDLJP:13933258。
- 『庚申山総合公園 藤岡市民体育館』(PDF)藤岡市、2016年 。2025年9月2日閲覧。
外部リンク
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