藤岡市市民体育館とは? わかりやすく解説

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藤岡市市民体育館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 07:38 UTC 版)

藤岡市民体育館
施設情報
正式名称 庚申山総合公園藤岡市民体育館
用途 スポーツイベント
収容人数 500名
建築主 群馬県藤岡市
事業主体 藤岡市
管理運営 藤岡市
構造形式 鉄筋コンクリート
敷地面積 68,777.00 m2
建築面積 3,299 m2
延床面積 7,157 m2
階数 地上3階
竣工 1988年3月20日
所在地 375-0024
群馬県藤岡市藤岡字南山2623-1
位置 北緯36度13分52.1秒 東経139度4分4秒 / 北緯36.231139度 東経139.06778度 / 36.231139; 139.06778 (藤岡市民体育館)座標: 北緯36度13分52.1秒 東経139度4分4秒 / 北緯36.231139度 東経139.06778度 / 36.231139; 139.06778 (藤岡市民体育館)
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藤岡市市民体育館(ふじおかししみんたいいくかん)は、群馬県藤岡市にあるスポーツ施設。

概要

藤岡市民ホール(旧市民体育館跡地)近くに建つ「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑

初代市民体育館は現体育館から約1.5 km離れた場所[1](藤岡市中心部)にあり[2]、1971年度(昭和46年度)・1972年度(昭和47年度)の継続事業として、総額1億2936万円を投じて建設された[3]。1985年(昭和60年)8月14日以降[4]日本航空123便墜落事故(同月12日発生)の身元不明の犠牲者の身元確認作業などに用いられ[2]、最大で254の棺が安置された[4]

市民体育館のほか、市内の3高校の体育館も遺体の身元確認所として用いられ[5]、市民体育館では10月5日まで安置されていた未確認の部分遺体29棺が出棺し、合同火葬されるまで[6]、事故発生から53日間にわたって遺体の確認作業が行われた[1]。その後、業者による清掃、消毒、脱臭作業が行われ、同月14日まで密封された[4]。当初は高校体育館とともに床の張り替え、消毒などの復旧作業を行った上で、同年11月始めから平常使用を再開する見込みと報じられていたが[5]、同年10月27日時点では床の傷みが酷く、同年中の使用は不可能とみられると報じられていた[4]。しかし、実際には出棺式終了後も市民からの利用申し込みはなく、駐車場が使われているのみで[3]、2か月近くにわたって遺体が安置されていたことから、同年12月時点でも悪臭が残っていたという[7]。市民からは「建て替えなければ使用したくない」という声が複数上がっていたため、市は体育館を建て替えることを決断、同年11月18日には日本航空(日航)に要請書を提出した[3]。当時、体育館は1972年の建設以来老朽化が進んでいたこと、また利用者が増加したことで手狭になり、建て替えが検討されていた一方、藤岡市は財政難の中にあり、初代体育館の建設時の負債も残っていたという[8]

この体育館建て替え問題にあたっては、市が日航に対し、当時約7億円と試算された建て替え費用のうち5億円の負担を請求したと報じられ、市民からは原因者である日航に援助を求めることはやむを得ないとする肯定的な意見が上がった一方、遺体確認作業や遺族の世話にボランティアとして奉仕した市民からは「上州人の心意気に水さすもの」と否定的な声も上がっていたが[8]、最終的に旧体育館は取り壊され[1]、2か年事業で市内の庚申山総合公園内に建て替えられ、1988年(昭和63年)3月27日に開館した[2]。総工費は13億円で[2]、うち3億5000万円は日本航空が負担した[1][9]。1階は武道場、2階はバレーボールのコート3面を有し、3階は500人分の観客席という構成になっており、開館時は県内最大級の体育館と称された[2]指定管理者は西上州ファシリティーズ。

なお、旧体育館の跡地には藤岡市民ホールが建設され、1987年(昭和62年)7月1日に完成した[9]。また、市民体育館脇には御影石製の記念碑「遺体安置場所の碑」(高さ2.8 m、幅1.2 m)が建立され、1986年(昭和61年)8月20日に除幕された[1]。この記念碑は、遺体確認作業や遺族の世話をしたボランティアの市民、医師会、歯科医師会員らが拠出した約150万円で建立されている[1]

設備

アリーナ部分

その他

  • 武道場1(畳敷、310m2
  • 武道場2(板敷、475m2
  • トレーニングルーム:220m2
  • 小体育室:264m2

初代体育館

移転建て替え前の初代体育館の広さは2442 m2と報じられている[3]。鉄筋コンクリート造で、床面積は約1700 m2(東西44 m×南北43 m)で、天井は吹き抜けになっており、東側中央部の正面玄関近くにホール、競技場の西側突き当たりにステージがあり、2階の南北両側が観覧席になっていた[11]。また玄関ホールの左右に管理室、トレーニングルームが、球技場の周囲にも控室6室、器具室2室があり、2階には2室更衣室があった[12]。トイレは1階に3箇所、2階に2箇所あった[13]

日航機墜落事故の際、群馬県警察の身元確認班は更衣室を事務局・会議室・仮眠室として用いていた[14]

交通アクセス

イベント

Bリーグに所属する群馬クレインサンダーズのアリーナの一つとして使用されている[16]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『上毛新聞』1986年8月21日朝刊20頁「日航事故の遺体安置所 記念碑を除幕 藤岡」(上毛新聞社)
  2. ^ a b c d e 上毛新聞』19871988年3月28日朝刊19頁「バレーの模範試合で完成祝う 藤岡市民体育館」(上毛新聞社)
  3. ^ a b c d 『上毛新聞』1985年12月4日朝刊17頁「藤岡市 「日航は5億円負担を」 体育館建て替えで要求」(上毛新聞社)
  4. ^ a b c d 『上毛新聞』1985年10月27日朝刊19頁「日航機事故 藤岡 市民体育館を〝お清め〟 悲しみにさようなら」(上毛新聞社)
  5. ^ a b 『上毛新聞』1985年10月12日朝刊19頁「深まる秋に線香の煙 落ち着き取りもどす上野村 県警現地本部15日にも撤収」(上毛新聞社)
  6. ^ 『上毛新聞』1985年10月6日朝刊21頁「無念さに肩落とす遺族 日航機事故合同出棺式 未確認の29棺ダビ 事故再発防止に願い」(上毛新聞社)
  7. ^ 読売新聞』1985年12月15日東京朝刊群馬讀賣第12版18頁「日航への体育館改築費5億要求 イメージダウンが心配 藤岡 奉仕の市民苦言 「名誉を守って」 純粋な気持ちだった せっかくの善意に水 市は「方針変更ない」」(読売新聞東京本社・前橋支局)
  8. ^ a b 読売新聞』1985年12月4日東京朝刊群馬讀賣第12版18頁「体育館新築の5億円請求 賛否の両論 藤岡 日航の償いは当然 心意気に水差した」(読売新聞東京本社・前橋支局)
  9. ^ a b 『上毛新聞』1987年7月2日朝刊20頁「藤岡市民ホール 500人が完成祝う 日航関係者らも出席」(上毛新聞社)
  10. ^ 庚申山総合公園 藤岡市民体育館 (PDF) 群馬県藤岡市
  11. ^ 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社、1998年6月24日第一刷発行、30頁「第二章 大量遺体 > 遺体受け入れ態勢」
  12. ^ 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社、1998年6月24日第一刷発行、30-31頁「第二章 大量遺体 > 遺体受け入れ態勢」
  13. ^ 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社、1998年6月24日第一刷発行、31頁「第二章 大量遺体 > 遺体受け入れ態勢」
  14. ^ 飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』講談社、1998年6月、31頁「第二章 大量遺体 > 遺体受け入れ態勢」
  15. ^ アクセス・お問合せ 庚申山総合公園
  16. ^ 藤岡戦ホーム速報 群馬クレインサンダーズ Official Facebook 2014年11月29日付

外部リンク




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