藤原季兼 (南家)とは? わかりやすく解説

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藤原季兼 (南家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:29 UTC 版)

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藤原季範
時代 平安時代後期
生誕 寛徳元年(1044年
死没 康和3年10月7日1101年11月6日
別名 三河四郎大夫
氏族 藤原南家貞嗣
父母 父:藤原実範、母:小野資通の娘
尾張職子
藤原季範
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藤原 季兼(ふじわら の すえかね、寛徳元年(1044年) - 康和3年10月7日1101年11月6日))は、平安時代後期の貴族藤原南家貞嗣流駿河守藤原実範の子。本名は季風。三河四郎大夫を名乗る。

経歴

寛徳元年(1044年)に駿河守藤原実範壱岐守・小野資通の娘の間に生まれる[1]

三河国額田郡を本貫として、額田郡の開発領主であり、郡司職にあたった。季兼は、権門の保護を必要としないほどの政治的成長と領城内を支配する武力を持ち、権門、国司在庁と抗争してその立場を獲得したとみられる[2]

尾張国目代となり、尾張国にある熱田神宮大宮司・尾張員職の娘・尾張職子との間に季範をもうけた[3][1]。当時、熱田大宮司尾張氏は国司と対立しており、季兼にとっては国司代官としての責務を果たすためにも、尾張国の権威を持つ大宮司家の娘との婚姻関係は望むところであった。目代藤原氏と大宮司尾張氏の婚姻の結果、大宮司家と国衛の関係は修復され、国衛領寄進の形態で社領の集積が図られた[4]

妻・尾張職子の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る[3]。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原南家藤原氏・千秋家による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。

康和3年10月7日1101年11月6日)に死去。58歳没[3][1]

系譜

  • 父:藤原実範
  • 母:小野資通の娘
  • 妻:尾張職子 - 尾張員職の娘

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 『日本人名大辞典』講談社、2001年、熱田大宮司季兼。
  2. ^ 藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』続群書類従完成会、2003年、32頁。ISBN 4797107391
  3. ^ a b c 『熱田神宮文書 千秋家文書』熱田神宮宮庁、1983年、299頁。
  4. ^ 藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』続群書類従完成会、2003年、12頁。 ISBN 4797107391



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