蒙驁
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蒙 驁(もう ごう、蒙傲、? - 紀元前240年)は、中国戦国時代末期の秦の将軍。斉の人。蒙武の父。蒙恬・蒙毅の祖父。昭襄王、孝文王、荘襄王、秦王政(後の始皇帝)に仕え、官位は上卿にまで至った。
生涯
秦の昭襄王の代(紀元前306年 - 紀元前251年)に斉から秦へと移る。
荘襄王元年(紀元前249年)、将軍に任命される。韓を攻めて成皋・滎陽・鞏を取り、初めて三川郡を置いた。秦の国境は魏の国都である大梁にまで達した。
荘襄王3年(紀元前247年)、魏を攻め、高都と汲を落とした。また、趙の楡次・新城・狼孟を攻めて37城を奪った。同年、魏の信陵君が五国(燕・趙・韓・楚・魏)の連合軍を率いて秦を攻めた。蒙驁はこれを迎え撃ったが大敗し、秦は最終的に函谷関で凌ぎ切った(河外の戦い)。
秦王政元年(紀元前246年)、秦王政が即位し、王齮・麃公と共に改めて将軍に任命される。晋陽で反乱が起こり、これを平定した。
秦王政3年(紀元前244年)、韓を攻めて13城を奪う。同年10月、魏の畼・有詭を攻めた。
秦王政4年(紀元前243年)、畼・有詭を落とした。同年3月、軍を撤収させた。
秦王政5年(紀元前242年)、魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽など20城を奪い、初めて東郡を置いた。
秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[1]。この時、指揮を執ったのは過去の戦歴等を考慮すると、蒙驁であったとする説がある[2]。
秦王政7年(紀元前240年)、死没。
逸話
秦の范雎が自領の汝南を失った際、昭襄王は范雎が領土を失っても憂えない様子を不思議に思い尋ねた。范雎はかつて領地を持っていなかった時期も憂えてはいなかったことを引き合いに出し、領土を失った状況は当時と同じであり、憂えることはないと説明した。昭襄王は信じられず、蒙驁にその真情を探るよう命じた。
蒙驁は范雎のもとを訪れると、「私は自決したいと思います」と切り出した。范雎は驚いて理由を問うと、蒙驁は「王が君(范雎)を師と仰いでいることは天下に知れ渡っております。今、私は幸運にも秦の将軍となり軍を指揮していますが、韓のような小国に君の領土を奪われたとあっては、私に何の面目があって生きていられましょうか」と答えた。范雎は蒙驁に拝礼し、「汝南奪還の件は卿(蒙驁)に委ねます」と言った。蒙驁はこれを昭襄王に報告すると、以降、范雎が韓について言及する度に昭襄王は聞きたがらなくなった。范雎が汝南を奪い返すために発言していると考えるようになったからである[3]。
脚注
- ^ 『史記』秦始皇本紀
- ^ 島崎晋 2019, p. 79.
- ^ “戰國策 (士禮居叢書本)/秦/三 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月7日閲覧。
参考文献
- 司馬遷『史記』巻5秦本紀、巻6秦始皇本紀、巻88蒙恬列伝
- 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。ISBN 978-4-575-45788-9。
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