葛城山田瑞子とは? わかりやすく解説

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葛城山田瑞子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 08:18 UTC 版)

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葛城山田 瑞子(かずらき の やまだ の みつこ)は、日本古代の豪族。6世紀中葉の児島屯倉田令(たつかい)。

経歴

葛城山田氏については、『新撰姓氏録摂津国未定雑姓に「葛城直」があり、「天神立命之後也」とある。系図によると継体天皇の御代に瑞子の父である広主が葛城山田直姓を賜ったことに始まるとされ、葛城国造の一族とされる[1]。「山田」は居住地域の地名と推定される。

日本書紀』巻第十九によれば、欽明天皇17年秋7月(556年)、蘇我大臣稲目宿禰(そが の おおおみ いなめ の すくね)たちが備前児嶋郡(こじまのこおり)に遣わされて、児島屯倉が設置されたが、稲目と共に田令として派遣されたのが瑞子である[2]。児島屯倉については諸説あるが、現在の岡山県児島半島北東部にあたるとする説が有力で、同じ岡山県の白猪屯倉の一部とする説もある。

同年の冬10月、稲目は倭国高市郡(たけちのこおり)の韓人大身狭屯倉(からひとのおおむさのみやけ)、高麗人小身狭屯倉(こまびとのおむさのみやけ)の設置に関与しており、同月には紀国に海部屯倉(あまのみやけ)が置かれている[3]。前年には稲目主導で白猪屯倉が設置されており[4]、これらとの関連性が考えられる。すなわち、屯倉の経営における蘇我氏の指導力と、大陸からの渡来人が果たした役割の大きさであり、屯倉が地方支配のための軍事的役割をも併せ持つ、ということである。

欽明天皇30年(569年)には、百済系帰化人である白猪胆津が瑞子の副(すけ、副官)となったという[5]

脚注

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  1. ^ 中田憲信「難波田使首」『諸系譜』第十一冊。
  2. ^ 『日本書紀』欽明天皇17年7月6日条
  3. ^ 『日本書紀』欽明天皇17年10月条
  4. ^ 『日本書紀』欽明天皇16年7月4日条
  5. ^ 『日本書紀』欽明天皇30年4月条

参考文献

関連項目




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