羊公碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:48 UTC 版)
襄陽に赴任中、羊祜は好んで峴山に登り、酒を飲みながら、時が経つのも忘れて景色を眺めていたという。ある時、峴山に登った羊祜は、友人に「この山は、古から数多の賢人才士を迎え入れ、またそれよりも多くの私のような普通の人々も登ってきた。だが、彼らの名は全て歴史に埋もれてしまった。何と悲しく寂しい事だろうか。だが私は、死んで人々に忘れ去られた後も、この山へ登りたい」と言った。すると、友人は「あなたの徳の高さは、皆が知っています。あなたの素晴らしさは、この山とともに伝えられていく事でしょう」と答えた。 羊祜の死後、襄陽の人々が遺徳を偲んで「羊公碑」を建立した時、このような理由で峴山を場所として選んだ。この羊公碑は、李興という男に書かれたその銘文を読めば誰もが羊祜を惜しんで泣いた、という事から、杜預によって「堕涙碑」と呼ばれるようになった。唐代の襄陽出身の詩人孟浩然が何度か詩に詠んでおり、李白も「君見ずや、晋朝羊公が一片の石」と詠じている。
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