秩父郡への移住と系図の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:46 UTC 版)
「本庄朝次」の記事における「秩父郡への移住と系図の問題」の解説
『児玉党系図』では、「本庄二郎左衛門家次(庄家次)の子、大瀧左衛門尉朝次」として名が記されている。これは後に、武蔵国秩父郡大瀧(秩父南部)へ移住し、その際に改めた為、新左衛門尉から大瀧左衛門尉になったと記されている。 系図では、家次→朝次→時次→有次とあるが、太郎有次の三人の弟の通称が、三郎助次、四郎重次、五郎氏次であり、二郎の通称を持った弟がいない事から、時次は父ではなく、有次の弟の1人と考えられる。遵って、朝次の子息が、有次、時次、助次、重次、氏次となる。児玉党の系図では、たびたび本宗家一族の系譜を長く見せる為、嫡男を次男の子息とする(一世代をずらす)改編が見られ、本来は、有次が朝次の嫡男とみられる。活躍した年代的にも違和感なく合致する。 後世、創られた系図が複数存在している事もあって、系図上に記されている事がどこまで信憑性があるのかが問題であり、家次系本庄氏の系図も時家系本庄氏と同様にまだ謎が多い。
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