近思録崩れ
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近思録崩れ(きんしろくくずれ)は、江戸時代後期文化5年(1808年)から翌6年(1809年)にかけて薩摩藩(鹿児島藩)で勃発したお家騒動。文化朋党事件、秩父崩れとも言われる。処分者の数は有名なお由羅騒動より多い77名であり、薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。
注釈
- ^ このときにやってきた商人の一人が後に山形屋を創立する。
- ^ 但し、薩摩藩城下士の間では江田氏や二階堂氏といった郷士が藩主生母一族として出世して側用人や家老になることに大変不満を持っていたことが久保之英の『見聞秘記』で明らかであり、郷士どころか元大坂藩邸足軽の倅が定府家老になった状態にも反発が強かったと予想される点に留意したい。
- ^ 山本正誼の教授就任に失望した古学派の荻生徂徠学の門人川上嘉善らが藩政批判を展開し、弾圧された事件。
- ^ 黒田清綱の祖父、黒田清輝曾祖父。
- ^ 県史料に同時掲載の「文化朋党一条」は山本のものでなく伊地知氏作である。また、「文化朋党実録」での山本の一人称が『余』でなく『山本傳蔵』なので「文化朋党実録」自体も写本の可能性が高い。
- ^ 薬丸兼慶の実兄の子孫。
- ^ 奈良原質の子孫で奈良原喜左衛門と奈良原繁先祖。
- ^ 小松清猷、小松千賀兄妹の母方先祖。
- ^ なお、西郷の母方祖父の椎原孝助や大久保利通の母方祖父の皆吉鳳徳が近思録派により失職していたり、山本権兵衛の大叔父の山本宇源太が納戸奉行から鎗奉行に左遷されている。
出典
- 1 近思録崩れとは
- 2 近思録崩れの概要
- 3 主な処分者
- 4 参考文献
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