福岡貰い子殺人事件とは? わかりやすく解説

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福岡貰い子殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/16 14:20 UTC 版)

福岡貰い子殺人事件とは、福岡県三井郡山本村を本籍とする男によって引き起こされた貰い子殺人の一つである。

事件

柴田與三郎

柴田與三郎
個人情報
生誕 1863年[2]
死没 1917年12月19日
大日本帝国
死因 絞首刑
殺人
犠牲者数 15 - 20人以上[3][4][注 1]
犯行期間 1913年9月1917年1月
大日本帝国
福岡県
司法上処分
刑罰 死刑
有罪判決 殺人罪死体遺棄罪詐欺罪[1]
判決 死刑
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柴田の生い立ち

38歳の時に流産によって死去した妻との間に息子2人と娘1人がいた[2]、若い頃は村の衛生組長を勤め、その後に家業の農業を水車業に切り替えた[1]1時は成功したが約8年後に失敗し、多くの負債によって生活に困窮した[1]、子供との生活は厳しく長女と長男を奉公へ出し、次男を実兄へ預け、與三郎は従弟である柴田金吾と同居して生活するようになった[1]。生活に困窮していたのにもかかわらず毎日を飲み、近隣者とも関わることがなかった[1]。與三郎は過去に長崎市外の天主教会の育児院に他人の嬰児を預けたことがあり[3]、その経験から恵まれない子を持つ親に話しかけて、養育費を添えて育児院に預けると伝え、他人から養育費を騙し取り受け取った嬰児を殺害すれば、儲けることが出来ると考え、犯行の計画を立てた[3]

連続殺人事件

與三郎はかつて天主教会の育児院に他人の嬰児を預けた事があり、その経験から不義の子を持つ親などに話しかけ嬰児の養育費を添えて「育児院に預ける」という名目を立て、「養育費を受け取った後に嬰児を殺してしまえばただ儲けになると考え犯行を計画し犯行に及ぶようになった。

主な殺人

事件発生日 被害者の親 被害者 場所 備考
1913年9月中旬 豊田金市、サダ 女児(生後3日) 三井郡千本杉付近 養育費21円と共に受け取り、咽喉を圧迫して殺害[3]
1913年10月 緒田コヨノ 私生児、男児(生後3日) 甲山 天主教会に預けると伝え、養育費12円と共に受け取り、コヨノから受け取った私生児と男児を甲山の牧場で圧迫死させた[3]
1915年4月 柳源吉 男児(生後10日) 三井郡 養育費18円と共に受け取り、三井郡で殺害[3]
1915年5月 清水亀太郎 男児(生後3週間) 山本村 養育費20円と共に受け取り、山本村で殺害[3]
1915年8月 志海伴作 男児(生後4日) 立曽根堤防 養育費12円と共に受け取り、立曽根堤防で殺害[3]
1915年9月 楢崎敬二郎 男児(生後14日) 豊田山林 養育費15円と共に受け取り、豊田山林で殺害[3]
1915年12月 高村作太郎 男児(生後7日) 豊田山林 養育費12円と共に受け取り、豊田山林で殺害[3]
1916年1月 小尾松ブン 男児(生後3日) 豊田山林 養育費17円と共に受け取り、豊田山林で殺害[3]
1916年2月 井上順平 男児(生後33日) 立曽根堤防 養育費20円と共に受け取り、立曽根堤防で殺害[3]
1916年6月 篠原卯太郎 女児(生後40日) 與三郎の自宅の居間 養育費12円と共に受け取り、與三郎の自宅の居間で絞殺[3]
1916年7月 田浦政二郎 男児(生後3ヶ月) 甲銅山 養育費14円と共に受け取り、甲銅山の石捨場で殺害[3]
1916年10月 鹿児島勘平 男児(生後5ヶ月) 甲銅山 養育費17円と共に受け取り、甲銅山の石捨場で殺害[4]
1916年11月 池尻定義の養母 男児(生後23日) 平原の谷 養育費21円と共に受け取り、平原の谷で殺害[4]
1917年1月 案子善五郎 男児(生後10ヶ月) 平原の谷 養育費22円と共に受け取り、盲落谷にて男児の咽喉に紙片を押し込み殺害[4]

與三郎の逮捕、そして処刑

やがて與三郎は殺害することに興味を覚え初め[4]、貰い子を受け取った後に昼夜問わず、の首を捻る感覚で幼児を殺害しては、林の中や谷底に遺棄し、素知らぬ顔で世間に接していた[4]。善五郎の子の首を捻って殺害しようとした時は突然泣き出したため、與三郎は焦り、懐から反古紙を取り出して反古紙を咽喉に押し込んで殺害した[4]。その後に善五郎の子の遺体を遺棄して帰宅したが、数日後に善五郎の子の遺体が山中で発見され、検死の結果、殺害するために咽喉に押し込まれた反古紙が見つかり、與三郎は検挙された[4]。與三郎は取り調べである時に山中で貰い子を殺害した時に、谷底に投げ込もうとしたが人が登って来たため、投げ込むのを断念し、弁当を腰に結び付けている様に見えるようにするため、遺体を逆さまにして、両足を自分の兵児帯に挿しこみ、マントの下に隠し、登山者と世間話を30分くらいして何喰わぬ顔で別れた事を自白し係官を震え上がらせた[4]。この行為に当時の世間は激怒した[4]。また冬に生後2ヶ月の貰い子を受けて帰る時には、寒さと空腹のために貰い子は泣き始め、與三郎は生きたまま風呂敷に貰い子を包み、貰い子をぶら下げて歩いた[4]、その後に泣き止んだため、風呂敷を開けてみると、貰い子は死亡していた[4][6]。投獄後、與三郎は容疑を否認したが、問い詰められると自白した、裁判では「誠にすまなかった」の一点張り、[6]死刑が宣告された時には全く驚いた様子もなかったと言われている[6]。公判廷では「妻を亡ってからは、せめて世の中の内証子を助けたら、いくらか善行功徳になると思って、嬰児を周旋をすることにした」と述べ、裁判官を驚かせた [6]、1917年12月19日午前6時12分、與三郎は死刑を執行され、13分後に死亡した(54歳没)[6][2]。與三郎の死後、彼のデスマスクが作成された[3]

関連項目

寿産院事件

脚注

  1. ^ 新聞によって異なる、20人を殺害したことを報道する新聞や[2]、数十人を殺害した事を報道する新聞がある[5]

出典

  1. ^ a b c d e 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日、33頁。NDLJP:1662919/21
  2. ^ a b c d 貰子二十人を絞殺す”. 2025年9月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日、34 - 35頁。NDLJP:1662919/22
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日、36 - 37頁。NDLJP:1662919/23
  5. ^ 稀代の人鬼”. 2025年9月16日閲覧。
  6. ^ a b c d e 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日、38頁。NDLJP:1662919/24

外部リンク




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