福寿丸・山崎丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:47 UTC 版)
大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものである。 一方、福寿丸や山崎丸に現在残る遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって築かれたものとする説が近年提示された。福寿丸と山崎丸の両方にある土塁挟みの虎口は、虎御前山城の(伝)木下秀吉陣に存在する虎口に類似しているが、朝倉氏の城にはみられない。また1575年(天正3年)の越前一向一揆の際、8月13日に織田信長は秀吉の守る小谷城に宿泊して軍の兵糧を調達し、翌14日に敦賀に着いたという記述が『信長公記』にあることによる。
※この「福寿丸・山崎丸」の解説は、「小谷城」の解説の一部です。
「福寿丸・山崎丸」を含む「小谷城」の記事については、「小谷城」の概要を参照ください。
- 福寿丸・山崎丸のページへのリンク