石川隆次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 16:34 UTC 版)
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 天文17年(1548年) |
| 死没 | 慶長6年3月17日(1601年4月19日) |
| 別名 | 通称:又一、惣佐衛門 |
| 墓所 | 天徳寺 |
| 主君 | 徳川家康→加藤嘉明 |
| 藩 | 伊予松山藩 |
| 氏族 | 石川氏 |
| 父母 | 父:石川又市 |
| 兄弟 | 石川正次 |
| 妻 | 加藤教明の娘 |
| 子 | 石川清隆 |
石川 隆次(いしかわ たかつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。清和源氏の石川氏で三河に生まれる。家康の命により、鳥居元忠のもとで働く。小田原の役にて功あり。後に豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人である加藤嘉明の家臣となる。通称は又市、惣左衛門。妻は加藤教明の娘であり、加藤嘉明の姉婿である[1]。
生涯
天文17年(1548年)、三河国幡豆郡(現:愛知県西尾市)で、石川又市の長男として生まれた。徳川家康に仕え、若年は家康の命により鳥居元忠のもとで働く。小田原の役にて功あり。後に松平家を去り、伊予松山城主となっていた加藤嘉明に招かれ仕える。文禄・慶長の役では、釜山にて嘉明とともに戦う。伊予松前では、1500石を賜り、来島城の城代となる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、伊予にて来島城に攻め寄せてきた毛利軍と戦う。毛利勢は9月10日に城の守りが堅固であったためこれを諦め、正木城(松前城)に矛先を向けた(三津浜夜襲)。その功により佛殿城(川之江城)を与えられ、3500石の加増で計5000石となる。
慶長6年3月17日(1601年)、伊予松前城下にて病死する。
元和8年(1622年)、加藤嘉明が遺骸を伊予天徳寺に埋葬する。
子孫
隆次の死後、家督は嫡男の石川清隆が継いだ。加藤嘉明の甥にあたる。会津騒動によりが加藤家を離れ、清隆の妻(野中益継の二女)の縁をたどり土佐の山内家に仕官している。会津騒動後も加藤家には清隆の末子である石川新右衛門玄隆が仕え、代々加藤家の家臣として幕末まで仕え続けている。加藤家が水口藩主となった頃には、水口藩にて家老として仕えた子孫もいる。土佐の山内家に仕官した子孫は、代々山内家に仕え続け、幕末には大阪在番で活躍した石川石之助がいる。
系譜
- 父母
- 石川又市
- 兄弟
- 女(中根次兵衛の妻)
- 女(石川平右衛門の妻)
- 女(犬塚甚助の妻)
- 女(真宗教弥坊官の妻)
- 石川正次
- 女(牧與治兵衛の妻)
- 妻子
- 妻:加藤教明の娘
- 女(深尾太左衛門の妻)
- 嫡男:石川清隆
- 女(宮川政忠の妻)
- 次男:石川山三郎
脚注
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年2月24日閲覧。
参考文献
- 『国立国会図書館デジタルコレクション 本朝武家諸姓分脈系図[96]』2011年。
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