短期間の治世と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 09:44 UTC 版)
「スティエパン・ヴク・コトロマニッチ」の記事における「短期間の治世と亡命」の解説
1366年2月、ボスニアで不平領主が大規模な反乱を起こし、スティエパン・トヴルトコ1世とイェレナはラヨシュ1世の宮廷に亡命した。代わりにヴクがバンの位を継いだ。彼がバンとして真剣に統治に取り組んだのは確かであるが、先の兄に対する反乱がヴクの扇動によるものだったのか、単に傀儡君主として貴族たちにヴクが祭り上げられただけなのかは定かではない。いずれにせよ一か月の間に、スティエパン・トヴルトコ1世はハンガリーの援軍を率いてボスニアに帰国した。3月末までにヴクはボスニアの一部を兄に奪われたが、首都ボボヴァチは維持し続けた 。しかし1367年後半、貴族のサンコ・ミルテノヴィチがヴクから離反してスティエパン・トヴルトコ1世につき、ザフムリェの大部分がスティエパン・トヴルトコ1世の支配下にはいった。同年のうちにヴクは廃位され、亡命した。
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