田中城主として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 04:23 UTC 版)
田中城(現・静岡県藤枝市田中1)は、1570年(永禄13年)正月、今川氏の傘下であった、徳之一色城を奪った武田信玄が新たに、これらの城域を移動させて増築したのが始まりとされる。 武田四天王の一人とされる山県昌景が城主を務めたが、1572年(元亀3年)、武田勢が西上作戦を始めるにあたって、武田信玄は城主を板垣信安に替え、さらに諏訪原城を構えて徳川氏と対決姿勢を強めた。板垣信安は、「田中の板垣殿」と呼ばれた。山梨県の冨士御室浅間神社や長野県の生島足島神社に判物や起請文が伝わっている。 しかし、この西上作戦の最中で信玄が没し、武田勝頼が1575年(天正3年)に長篠の戦いで大敗を喫すると、徳川氏が諏訪原城を奪い、田中城の支城も徳川氏の手に落ちて孤立した。 1582年(天正10年)、武田親族衆である江尻城の穴山梅雪が徳川氏に寝返ると、田中城の城主だった依田信蕃は開城し、徳川氏の傘下に入った。
※この「田中城主として」の解説は、「板垣信安」の解説の一部です。
「田中城主として」を含む「板垣信安」の記事については、「板垣信安」の概要を参照ください。
- 田中城主としてのページへのリンク