瑠求侵攻と正安の蒙古襲来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
詳細は「モンゴルの瑠求侵攻」を参照 1291年(正応4年・至元28年)9月、元は6,000人の大軍で瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画をたて、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおこの「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説ある。 1301年(正安3年・大徳5年)11月、薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある。 1592年豊臣秀吉による文禄の役においては北元(韃靼)勢力下にあったオランカイに侵攻している。
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