王杲 (建州女真)
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王杲 (拼音:wáng gǎo, 仮名:ワウ・カウ/オウ・コウ) は、明代の建州女真。度々明朝の辺塞を侵犯し、多数の明官を殺害したため、明朝の檄文を受けたハダ初代国主・萬により捕縛され、万暦帝に直接引き渡された後、磔刑にかけられ死亡した。(生:? - 歿:1575)
- ^ 维基百科より引用、典拠不詳。
- ^ a b “にっ-しゃ【日者】”. 精選版日本国語大辞典. 小学館 . "〘名〙②日の吉凶を卜する者。占い者。〔史記‐日者伝集解〕"
- ^ 维基百科は「王杲攻略辽阳、孤山、抚顺、汤站等地」としているが、「略」一字で「攻略」と読むのは少し苦しい。大概は「略奪」の意味で用いる。
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "……遂犯遼陽,劫孤山,略撫順、湯站,……"
- ^ 「守備・賈汝翼初メテ上リ,亢厲ヲ爲シ,諸酋長ヲ抑ヘテ階下ニ立タセ,諸酋長故事ニ非ザルヲ爭ヒ,階ヲ盡シテ一等進ム。」(清史稿-222)、「備禦・賈汝翌新タニ蒞ミ,酋長ヲ抑ヘ堦ヲ下ラシ,……」(東夷考略)。
- ^ “隆慶六年七月18日”. 明神宗實錄. 3. 不詳. "……汝翼卻夷人之土儀懲其違抗……"
- ^ “隆慶六年七月18日”. 明神宗實錄. 3. 不詳. "……杲遂約諸部落屢入為寇副總兵趙完故違學顏節制不發兵防堵委罪汝翼以媚夷心……"
- ^ “隆慶六年九月5日”. 明神宗實錄. 5. 不詳. "○兵部覆遼東巡撫張學顏奏建夷王杲屡肆刼掠官軍斬獲二十八級杲懷憤必求大逞我以久疲之軍當之恐未必勝宜乘其沮氣再行宣諭令杲送還所掠人口准其入市如仍前執迷則調集重兵相機剿殺毋容姑息貽害地方上報可"
- ^ “隆慶六年九月12日”. 明神宗實錄. 5. 不詳. "○兵部奏東夷阿革王杲等犯撫順寧前錦義地方……"
- ^ “【盟歃】めいそう”. 普及版字通. 平凡社 . "血を歃(すす)ってちかう。血盟。"
- ^ a b “隆慶六年十月26日”. 明神宗實錄. 6. 不詳. "○廵按遼東御史朱文科奏九月二十八日王台吉領部落一千餘騎夷酋王杲等領騎三千 (二千) 餘各近撫順関分守東寧道李鶚開原兵備王之弼差官與杲歃血盟和失宣布之体有損國威自五月至九月擄去軍民二百五十餘名口未見送還因追參備禦賈汝翼生事啓釁法當重究分守東寧道李鶚開原兵備道王之弼當日頗有措置彈壓之功請行罰治章下兵部鶚之弼各奪俸二月"
- ^ “慶六年十月21日”. 明神宗實錄. 6. 不詳. "○以撫順東川等堡節經失事革備禦賈汝翼……遼陽副總兵趙完已經革職戴罪立功俱免究……"
- ^ “萬曆元年二月6日”. 明神宗實錄. 10. 不詳. "○革遼東副總兵趙完任行廵按御史提問先是王杲入犯完觀望逗遛坐革職"
- ^ “隆慶六年十二月25日”. 明神宗實錄. 8. 不詳. "○遼東撫臣張學顏奏建州夷首王杲遵奉宣諭約海西夷首王台送還所擄人口一百四十九名請加賞免剿准其入貢仍行河東將領加意撫處勿得更變成規致失夷心濫增賞物養成後患兵部覆奏賞王台銀幣"
- ^ “こう‐や【行夜】”. 精選版日本国語大辞典. 小学館 . "〘名〙衛府の官人が、夜中に京城 (羅城門の内) を巡回して警備すること。"
- ^ 维基百科は土蛮 (トゥメン・ジャサクト・ハーン) としているが、典拠不詳。『清史稿』巻222の原文は「土默特、泰寧諸部」。
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "三年二月,王杲復出,謀集餘眾犯邊,復爲明軍所圍。王杲以蟒褂、紅甲授所親阿哈納,陽爲王杲突圍走,明軍追之。王杲以故得脫,走重古路,將往依泰寧衞速把亥。明軍購王杲急,王杲不敢北走,假道於王台。邊吏檄捕送。"
- ^ 维基百科は「萬曆二年(1574年),……王杲不敢北逃,只得借道哈达,為王台所擒,献予明廷。明神宗亲至午门城楼接受献俘。」として、北へのルートをやめ、ハダを経由しようとして萬に捕縛され、紫禁城に押送されるまでを万暦2年のこととしているが、典拠なし。
- ^ 『清史稿』巻222「王杲」では「……王台率子"虎兒罕赤"縛王杲以獻,……」、「……因誘葉赫楊吉砮等侵"虎兒罕赤"。」と、萬の子・フルガンを「虎兒罕赤」としているが、「赤」が何を指すか不明。なお、『清史稿』巻223では「扈爾干」と表記され、「赤」はつかない。
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "七月,王台率子虎兒罕赤縛王杲以獻,檻車致闕下,磔於市。王杲嘗以日者術自推出亡不即死,竟不驗。"
- ^ “萬曆三年七月28日”. 明神宗實錄. 40. 不詳. "○虜酋王台執王杲以獻邊臣以聞"
- ^ “建州女直攷”. 東夷考略 (Wikisource版). 不詳 . "……加台龍虎將軍秩眎西虜二子並進都督僉事……"
- ^ フルガンのほかもう一人は不明。サムハトゥ (三馬兎) か。
- ^ “萬曆三年八月6日”. 明神宗實錄. 41. 不詳. "○辛未論擒獲王杲功上命械觧王杲獻俘正法以王台縛送首惡忠順可嘉加授勳銜二子俱陞都督僉事仍賞銀幣以示優獎"
- ^ “萬曆三年八月29日”. 明神宗實錄. 41. 不詳. "○甲午上御午門雲楼受遼東守臣所獻逆酋王杲俘百官稱賀……"
- ^ 维基百科は「王杲被磔于北京。」としているが、典拠不詳。
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "妻孥二十七人爲王台所得,其子阿台脫去。"
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "王杲,不知其種族。"
- ^ “第八節 奴兒哈赤大に建州に起る”. 清朝全史. 上. 早稲田大学
- ^ 滿洲開國史講義. 中華書局. p. 194
- ^ 万暦21年にイェヘを盟主とする九部聯合軍がヌルハチと激突した「グレ山」が、このグレ城の跡地とされる。
- ^ 『清史稿』巻222と『東夷考略』には莽子寨に住む毛憐衛女直の「阿海」という同名の人物がみられるが、『柳邊紀略』巻3には「 沙濟城主阿海」とある。同名の別人か、或いは同一人物でどちらかの文献が事実誤認しているか、ここでは不明ながら、一旦は王杲の子として挙げておく。
- ^ 柳邊紀略. 3. 不詳 . "……蘇克蘇滸河其地在清河邊外屬城寨之著者七……曰古勒城曰沙濟城沙濟城主阿海與古勒城主阿太皆王杲子也……"
- ^ “建州女直通攷”. 東夷考略. 不詳 . "……而别將秦得倚等已前破阿海寨誅海海毛憐衞夷往牧莾子寨與阿台濟惡亦梟逆也"
- ^ “王杲”. 清史稿. 222. 清史館 . "阿台居古勒寨,其黨毛憐衞頭人阿海居莽子寨,兩寨相與爲犄角。"
- 1 王杲 (建州女真)とは
- 2 王杲 (建州女真)の概要
- 3 子孫
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