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王懋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:35 UTC 版)

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王 懋(おう ぼう、515年 - 559年[1])は、中国西魏北周軍人は小興。本貫楽浪郡開皇7年(587年)作「王懋墓誌」に「其先世有入仕於魏者、重復加拓、遂為拓王氏焉」とあり、複姓を称していることから胡族とみられる[2]

経歴

王盟の子として生まれた。王盟が関中に入ったとき、王懋はまだ幼く、山東にとどまった。529年、はじめて関中に入り、王盟の征戦に従った。535年、安平県子の爵位を受け、揚烈将軍に任じられた。538年、王盟に従って悼皇后郁久閭氏を柔然に迎えに行き、帰還すると城門校尉に任じられた。西魏の文帝東魏に親征すると、王懋は撫軍将軍兼太子左率として、長安の留守をまもった。太子右率に転じた。尚食典御・領左右・武衛将軍を歴任した。前後の功績により、爵位は公に進み、右衛将軍に転じた。545年、王盟が死去すると、王懋は辞職を願い出たが、文帝は許さなかった。大都督・散騎常侍・使持節・車騎大将軍・驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中・左衛将軍・領軍将軍を歴任した。

宮中の宿衛として十数年つとめあげ、態度は真摯で過ちがなく、文帝に賞賛された。553年、南岐州刺史に任じられ、爵位は安寧郡公に進んだ。555年大将軍・大都督に転じた。後に小司寇に任じられた。在官のまま死去した。

子の王悦が後を嗣ぎ、大将軍・同州刺史となり、済南郡公に改封された。

伝記資料

  • 周書』巻20 列伝第12
  • 北史』巻61 列伝第49

脚注

  1. ^ 楊宏毅・賀達忻 (2005年). “隋《王懋曁妻賀抜氏墓誌》考”. 《碑林集刊》 (00期): p. 47-50. オリジナルの2017年10月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171021003757/http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTOTAL-BLJK200500045.htm 
  2. ^ 会田大輔『北周宗室の婚姻動向 :「楊文愻墓誌」を手がかりとして駿台史学会〈駿台史學(144)〉、2012年3月、132頁。



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