王修 (民国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/02 10:04 UTC 版)
王修 | |
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『最新支那要人伝』(1941年)
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プロフィール | |
出生: | 1886年[1][注 1] |
死去: | 不詳 (1945年8月時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 博物学者・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 王修 |
簡体字: | 王修 |
拼音: | Wáng Xiū |
ラテン字: | Wang Hsiu |
和名表記: | おう しゅう |
発音転記: | ワン・シウ |
王 修(おう しゅう、1886年 – 没年不明)は、中華民国の博物学者・官僚。字は梅堂[1][3]。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要人となった。
事績
清末に日本へ留学し、1911年(宣統3年/明治44年)3月に東京高等師範学校本科博物学部を卒業した[4]。帰国後は福建省教育会会長、北京交通大学教授、曁南大学文学院教授兼理学院教授、上海交通大学教授と歴任する。その後、上海自然科学研究所所員として中日交流に従事した[1][3]。
梁鴻志らによる華中での親日政権樹立活動に、王修も参加したと見られる。1938年(民国27年)3月28日、中華民国維新政府が設立されると、6月3日に教育部(部長署理:陳群)高等教育司長に任命され[5]、後に臨時教員養成所副所長を兼ねた[1][注 3]。翌1939年(民国28年)4月6日に教育部次長の顧澄が部長署理に昇進すると、同日に王修も同部次長に昇進している[6][注 4]。
1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、同日、王修は監察院審計部(部長:夏奇峯)常務次長に任命された[7]。1943年(民国32年)2月13日、国民政府で政務次長・常務次長の次長2人制が廃止され、次長1人制へ改組されると、王修が審計部次長に任命された[8]。王はこのまま汪兆銘政権崩壊まで在任したと見られる[9]。
汪兆銘政権崩壊後における王修の動向は不詳である。ただし、王が漢奸として摘発されたとの情報はない。
著作
注釈
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、14頁は「1890年生」。東京高等師範学校卒業年が1911年3月のため、本記事では橋川編(1940)を優位として、これに従う。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、14頁は、「福建省閩侯県」としている。本記事は橋川編(1940)及び劉ほか編(1995)に従う。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)によると教育部「総務司長」に任命、としている。
- ^ 劉ほか編(1995)、1029頁は、前年10月22日に呉維中が司長に就任した際に、いったん王修は司長を免ぜられたとしている。しかし、維新政府公報に記載なく、また、王修が後に次長に昇進していることから見ても誤りと考えられる。なお、司長自体も複数人の就任が可能である。
出典
- ^ a b c d e f 橋川編(1940)、38頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1248頁。
- ^ a b 東亜問題調査会編(1941)、14頁。
- ^ 東京高等師範学校編『東京高等師範学校第一臨時教員養成所一覧 自大正14年至15年』東京高等師範学校、444頁。
- ^ 維新政府令、民国27年6月3日(『政府公報』第10号、民国27年6月13日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1029頁。
- ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『国民政府公報』(南京)第1号、民国29年4月1日、国民政府文官処印刷局、12頁)。
- ^ 『日文国民政府彙報』第165号、民国32年3月7日、中国和文出版社、2頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1055頁。
参考文献
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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