焼失と移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 10:26 UTC 版)
以後の浄興寺は度重なる火災により各地を転々とした。弘長3年(1263年)、小田泰知の乱により伽藍を焼失。常陸板敷山(現在の茨城県石岡市)大覚寺に移る。その2年後の文永2年(1265年)、火災により再び焼失。常陸磯辺村(現在の茨城県常陸太田市)に移った。さらに2年後の文永4年(1267年)には信濃長沼(現在の長野県長野市)に移っている。 永禄4年(1561年)、川中島の戦いの兵火により焼失。13世住職周円は焼死し、寺は小市村(現在の長野市安茂里)に避難する。後に上杉謙信の庇護により信濃別府(現在の長野県須坂市)に移った。永禄10年(1567年)に上杉謙信の招きにより越後春日山(現在の新潟県上越市)に移る。なお、同地への招聘は上杉景勝によるものとする説(年号不詳)がある。
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