ジョアン2世 (ポルトガル王)とは? わかりやすく解説

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ジョアン2世 (ポルトガル王)

(無欠王 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 15:54 UTC 版)

ジョアン2世
João II
ポルトガル国王
在位 1481年8月29日1495年10月25日

出生 1455年3月3日
ポルトガル王国
リスボン
サン・ジョルジェ城
死去 1495年10月25日
ポルトガル王国
アルヴォル
埋葬 ポルトガル王国
レイリア県
バターリャ
バターリャ修道院
配偶者 レオノール・デ・ヴィゼウ
子女 アフォンソ
ジョアン
ジョルジェ(庶子)
家名 アヴィス家
王朝 アヴィス朝
父親 アフォンソ5世
母親 イザベル・デ・コインブラ
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ジョアン2世João II, 1455年3月3日 - 1495年10月25日[1])は、アヴィス王朝ポルトガル(在位:1481年 - 1495年)。アフォンソ5世と最初の王妃イザベル・デ・コインブラの子。「無欠王」(O Príncipe Perfeito)と称される。

事跡

父王の時代から摂政の地位にあり、1481年に即位する。即位後は強力な中央集権化を目指し、コルテス(身分制議会)の援助を得て貴族階級を弾圧した。1483年には、国土の3分の1を支配してポルトガルで権力をほしいままにしていた上、カスティーリャ王国と内通していた又従兄のブラガンサ公フェルナンド2世を滅ぼした。1471年に結婚した王妃レオノール・デ・ヴィゼウの兄で、ジョアンの従兄に当たるヴィゼウ公ディオゴも、謀反に加わっていたため同年に殺された。

エンリケ航海王子アフリカ西海岸開拓事業を継承して、1484年コンゴ河口、1488年には喜望峰に到達する。クリストファー・コロンブスの航海事業には協力しなかったため、大西洋開拓ではスペインカスティーリャアラゴン連合王国)に遅れをとった。

従妹でもある王妃レオノールとの間の2男のうち、次男ジョアンは夭逝した。長男アフォンソ王太子は1490年、カスティーリャ=アラゴン王女イサベルカトリック両王の娘)とエヴォラで結婚したが、翌1491年に王太子は落馬事故で死去し、王太子妃イサベルは故国へ戻った。

王の血を引くのは庶出の男子ジョルジェ(1481年 - 1550年)しかいなかったが、王妃レオノールに嫌われており、後継者に指名できなかった。結局、王妃の勧めに従い、彼女の弟で従弟に当たるベージャマヌエルを王太子に指名した。

1495年、41歳で死去した。精力的で覇気に溢れた名君として高く評価されている。

脚注

関連項目

先代
ジョアナ英語版
アフォンソ
ポルトガル公
1455年 - 1477年
1477年 - 1481年
次代
アフォンソ
アフォンソ



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