源乾曜とは? わかりやすく解説

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源乾曜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/30 09:03 UTC 版)

源 乾曜(げん けんよう、生年不詳 - 731年)は、唐代官僚政治家本貫相州臨漳県[1][2]

経歴

高宗のときの司刑太掌伯(刑部尚書)の源直心の子として生まれた。進士に及第した。神龍年間、殿中侍御史として江東を巡察した。景雲年間、諫議大夫に累進した。ときに公卿百官の三九射礼が廃されて久しかったため、乾曜はこの礼を実施するよう上疏した。ほどなく乾曜は梁州都督として出向した[1][2]

開元初年、邠王府の官吏に法を犯した者がいたため、玄宗は王府の長史にふさわしい者を求めた。乾曜は太常寺卿の姜皎に推薦されて、少府少監に任じられ、邠王府長史を兼ねた。まもなく戸部侍郎に転じ、御史中丞を兼ねた。ほどなく尚書左丞に転じた。開元4年(716年)冬、黄門侍郎同紫微黄門平章事(宰相)に抜擢された。10日ほどで、姚崇とともに宰相から罷免された。玄宗が東都洛陽に行幸すると、乾曜は京兆尹となり、京師留守をつとめた[3][2]

開元8年(720年)春、再び黄門侍郎・同中書門下三品(宰相)となった。ほどなく銀青光禄大夫の位を加えられ、侍中に転じた。開元13年(725年)、乾曜は玄宗の封禅に扈従して、侍中を兼ねたまま尚書左丞相に任じられた。乾曜は国政の事務にあること10年、張嘉貞張説が相次いで中書令となったが、乾曜はあえて政局を争うことなく、ことあるごとにかれらに譲った。李元紘杜暹が宰相となるに及んでは、乾曜は国政の議論に参加することすらなくなり、唯々諾々と署名するだけになった。かつて乾曜は姜皎に推薦されて抜擢されたが、姜皎が張嘉貞に陥れられて罪に問われると、乾曜は姜皎を救おうともしなかったため、当時の識者に非難された[4][5]

開元17年(729年)夏、侍中の事務を兼ねることを停止された。この年の秋、太子少師に任じられたが、祖父の名が師といったことから、避諱のために固辞した。そこで太子少傅に任じられ、安陽郡公に封じられた。開元19年(731年)、玄宗が東都洛陽に行幸すると、乾曜は老病のため扈従に耐えられず、長安に留まって病身を養った。この年の冬に死去した。幽州大都督の位を追贈された[6][7]

子女

  • 源復(華州刺史)[8]
  • 源弼(工部郎中)[8]
  • 源潔(河南県令)[8]
  • 源清(駙馬都尉)[8]
  • 源晋賓

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3070.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4450.
  3. ^ 旧唐書 1975, p. 3071.
  4. ^ 旧唐書 1975, pp. 3071–3072.
  5. ^ 新唐書 1975, pp. 4450–4451.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 3072.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 4451.
  8. ^ a b c d 新唐書 1975, p. 3362.

伝記資料

参考文献




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