渡辺信二 (パイロット)とは? わかりやすく解説

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渡辺信二 (パイロット)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 09:02 UTC 版)

渡邊 信二
フルネーム 渡邊 信二
生誕 (1900-03-12) 1900年3月12日
兵庫県印南郡志方村
死没 1926年4月6日(1926-04-06)(26歳没)
兵庫県神戸市駒ケ林沖
モニュメント 飛行士渡邊信二君記念碑
飛翔(渡辺信二飛行士顕彰碑)
国籍 日本
教育 志方尋常高等小学校
飛行経歴
著名な実績 定期郵便飛行(日本航空輸送研究所)
関西初の滑空飛行
初飛行 1921年10月17日
グライダー(自作)
免許 二等飛行機操縦士
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渡邊 信二(わたなべ しんじ[1][注釈 1]1900年明治33年〉3月12日 - 1926年大正15年〉4月6日[2])は、大正時代に活動した日本の民間パイロット。 日本の定期郵便飛行における初の犠牲者[2][3]であり、また関西初の滑空飛行を行った人物とされる[4]

経歴

兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)に生まれる[2][注釈 2]。志方尋常高等小学校卒業後播州鉄道会社勤務を経て[5][注釈 3]1922年(大正11年)12月13日に日本航空輸送研究所に入所し[2]、1923年(大正12年)2月21日付で飛行機操縦士免状(三等)[注釈 4]の交付を受けて同社の郵便飛行事業に従事した[2]。 1924年(大正13年)11月27日に二等飛行機操縦士に昇格し[注釈 5][注釈 6]、定期郵便飛行のほか機体組立整備や操縦士養成[注釈 7]、郷土訪問飛行(1925年(大正14年)3月21日)、播丹鉄道全通奉祝全線飛行(同3月22日)などを行った[12][注釈 8]

1926年(大正15年)4月6日、定期郵便飛行(大阪 - 高松 - 今治線)乗務中の航空事故により死去した[12][13]。葬儀は日本航空輸送研究所の研究所葬として志方村で営まれた[14][15]

滑空飛行

播州鉄道勤務のかたわら翼幅8メートル・全長5メートル・重量30キログラムのグライダーを半年かけて製作し[1][注釈 9][注釈 10]、人力牽引による[9]道路の直線部を利用したテストを実施した後[9][注釈 11]、1921年(大正10年)10月17日に自宅付近の高御位山(標高304 m、兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する)において山頂発航による試験飛行を行った。

関係者の回想[15][注釈 12]によれば、山頂の断崖より補助者の助力を得て離陸した際に尾翼と樹木が接触したため、到達目標としていた山麓の池[注釈 13]には届かなかったという[15][注釈 14]。飛行距離300メートル、滞空時間30秒[1]

この飛行は、主に顕彰碑「飛翔」の碑文(1961年(昭和36年)10月17日建立)によって「関西初の滑空飛行」として知られる[5][注釈 15]

航空事故

1926年(大正15年)4月6日午前11時47分[12]、日本航空輸送研究所の郵便飛行機横廠式アルグス180馬力、千鳥二百一號[17][注釈 16][注釈 17][注釈 18]に搭乗し、同乗者一名を伴い堺大浜〔水上飛行場〕を離水した[18]。 同日12時頃[注釈 19]兵庫県神戸市駒ケ林沖[注釈 20]で同機が爆音と炎を発し降下を開始した後突然降下角を深めて海面に突入する様が、水上・陸上の双方より目撃された[注釈 21][注釈 22]。同乗者は直後に救助されたが死亡[18]、渡邊飛行士は事故の翌日、機体残骸近傍の海底で発見された[12]。遺体の顔面には火傷が見られ[注釈 23]、搭載貨物[注釈 25]や引き揚げられた機体残骸[注釈 26]も焼損していた。

1926年(大正15年)4月7日、航空局は調査結果を発表し、事故原因を機上火災を発端とする複合要因とした[注釈 27]。後の文献では飛行眼鏡を着用していなかったため炎により視界を失い着水操作を誤ったことを事故原因としている[2][11][注釈 28]

日本の定期郵便飛行における最初の死亡事故とされる[19][23]

その他

  • 志方町内有志が建立した[15]「飛行士渡邊信二君記念碑」が志方町に残る[注釈 29]。碑文祭文日付1926年(大正15年)8月[2]、1927年(昭和2年)4月6日除幕[2][24]
    飛行士渡邉信二君記念碑
  • 「飛翔」(渡辺信二飛行士顕彰碑)が高御位山山頂にある。志方町の文化団体「番茶くらぶ」[25]ほか有志の発起により1961年(昭和36年)10月17日に建立された[26][注釈 30]
  • 渡邊家に伝わった遺品はのちに加古川市教育委員会に寄贈され、2016年(平成28年)11月に催された展覧会では飛行服、帽子、航空用眼鏡、プロペラの破片、アルバムの写真等が展示された[27]
  • 阿部牧郎は、渡邊信二の生涯を題材とした中編小説「飛翔記」[28]を1976年(昭和51年)に別冊文藝春秋に発表した。自作グライダーによる試験飛行を主軸に、航空機に初めて接してから日本航空輸送研究所の操縦士として郷土訪問飛行を行うまでを描いたもの。単行本未収。

脚注

注釈

  1. ^ 加古川観光協会は「わたなべ のぶじ」とする(外部リンク参照)。
  2. ^ 『兵庫県人物事典 下巻』は氷上郡相原町生まれとする[1]
  3. ^ 『志方町誌』はその後1922年(大正11年)の時点では大阪市役所に勤務とする[5]
  4. ^ 官報広告「免状番号: 174, 効力の制限事項: 横廠式ベンツ100馬力、同ベンツ130馬力, 曲技飛行: 行うことを得ず」[6]
  5. ^ 官報広告「免状番号: 251, 効力の制限事項: 横廠式ベンツ100馬力、同ベンツ130馬力, 曲技飛行: 行うことを得ず」[7]。後、1925年(大正14年)12月に制限事項拡張(官報広告「拡張事項: 横廠式ロ號甲型イスパノスイザ200馬力、同ロ号甲型改造アルグス180馬力」[8]
  6. ^ 『航空殉職録 民間編』は「殉職と同時に一等飛行操縦士に昇進せり」とする[2]。また「日本最初の滑空」(高橋伍郎)は「一等飛行士免許を数日に控えた大正15年4月6日」と記す[9]。義姉である渡邊もく子は雑誌投稿(1926年〈大正15年〉2月刊)に「遂に弟は大正十三年の暮までには、宿望叶って三等飛行士、二等飛行士の免状を得まして、もう一等飛行士となるのも間もないこととなりました」と記す[10]
  7. ^ 渡邊もく子は義弟の活動について「只今、大阪府堺大濱日本航空輸送研究所に、毎日飛行機の組立や作業に従事し、練習生を導き、大阪今治間の郵便飛行や、いろいろの祝賀飛行や、甲子園の野球応援等と活動している様子で、また新聞紙に二等飛行士渡邊信三〔ママ〕の名を見出すことも多くなりました」と記す[10]。『日本航空史 乾』は「特に機体修理に秀れた技倆を持っていた」とする[11]
  8. ^ 『兵庫県人物事典  下巻』は「播州鉄道の谷川線(国鉄加古川線)開通祝賀飛行」とする[1]
  9. ^ 「郷土の先覚者 渡辺信二飛行士を偲ぶ」(平田五郎)は「翼八メートル位で、機長四メートル〔重量の記述なし〕」[15]、『志方町誌』は「翼八米、機長四米ほど〔重量の記述なし〕」とする[5]。また「日本最初の滑空」(高橋伍郎)は、設計完了1921(大正10年)年4月、同9月機体完成、全幅9m・全長6m〔重量の記述なし〕、胴は開放トラス構造(縦通材4本)、翼は綿布張りニス仕上げとする[9]
  10. ^ 加古川観光協会の動画(外部リンク参照)に映り込む出典不明の資料に、補助翼を持つパラソル翼単葉機の機体概略図が掲載されている。
  11. ^ 「聖峰たかみくら」には「横大路街道の平坦部を利用しての度重なる安全テストの繰返しなど」とある[16]。 「日本最初の滑空」(高橋伍郎)は試験飛行について「機には人の重量に似た石が搭乗、十数名の青年たちがロープで引走った。彼はその模様を詳細に観測、新しく尾橇の取付けなどの修正を加えた。中でも横滑りには悩まされていたと云われる。試験も重ねる度に自信がつき、やがて弟六郎氏(後川西航空KKにて殉職)を搭乗されて行うほどになり、遂には地上1米程度の空中滑走に成功、益々自信を固めた」と記す[9]
  12. ^ 著者の平田五郎は発航補助者の一人で、当時小学生であった[15]
  13. ^ 「日本最初の滑空」(高橋伍郎)は「山上より池まで直線約1,500米」とする[9]
  14. ^ 『兵庫県人物事典 下巻』には「五人がかりでグライダーを山上に運び、滑空テストをやったが、尾部が崖に触れて急降下。三百メートルを三十秒間滑空しただけで松林に不時着した」とある[1]
  15. ^ 後の航空事故直後の新聞記事には渡邊信二の経歴に触れたものがあるが、この試験飛行に関する記述は含まれていない[17][18]。「日本最初の滑空」(高橋伍郎)[9]以外でこの碑文に先立つ記述としては『日本航空史 明治・大正編』(1956年(昭和31年))の「少年時代、グライダーを造って大空にあこがれていた」があるが、試験飛行には触れていない[19]
  16. ^ 『航空殉職録 民間編』[2]・『日本航空史 乾』[11]は共に「横廠式ロ号甲型機」とする。
  17. ^ 大阪朝日新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「偵察飛行をやった井口飛行士は愁然として語る / あの飛行機は全くの新品で発動機の調子も頗る良くまだ郵便飛行をヤッと四、五回やったばかしです」[13]
  18. ^ 神戸新聞1926年(大正15年)4月8日朝刊「遭難飛行機は去月十日日本航空研究所で建造したもので損害二万円の見込みである」[12]
  19. ^ 同乗者の腕時計は11:53を指して止まった状態で発見された[17][18]
  20. ^ 神戸新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊は「神戸市駒ケ林野田ライジングサン石油タンク沖合約二十丁〔約2.2キロメートル〕」[18]、東京朝日新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊は「神戸市和田岬西方野田村沖合約一里半〔約5.9キロメートル〕」[20]、大阪毎日新聞1926年(大正15年)4月7日は「神戸市林田妙法寺川沖合一マイル半〔約2.4キロメートル〕」とする[17]
  21. ^ 神戸新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「朝日丸乗組員や駒ケ林附近の人々の話を綜合するとだしぬけに大爆音を発すると同時に飛行機よりパッと火焔が見えた、「変だな」と思う刹那飛行機は急に下げ舵となり着水する時の状態で機首を下に真っ逆様に海中に突入沈下し二人の身体は水面約三十米突もある所まで墜落した時機体より後ろに離れて弾丸のごとく海中に落ち込み斯て一旦姿を没した二人はしばらくして水面に浮かび上がって来た」[18]
  22. ^ 大阪毎日新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「墜落当時の模様について山内航空局検員は / … 正午前川崎造船所沖約五百メートル上空に現われた同機が急に下舵を取りはじめ、駒ケ林沖へ差かかった時は百メートル足らずとなり陸の人達が変だと思う間に突如真っ逆立となって一気に墜落したというのが最も確からしい / と語った。また現場に近い陸の人の話しでは / 墜落する前から黒煙を吐いていたともいい、火を吐いていたともいっている。また墜落する時は機体を先に、人間が後から落ちて来たともいっている」[17]
  23. ^ 神戸新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「背広服の上に飛行服をまとうた渡邊二等飛行士の死体は機関部発火の際蒙ったと思わるる唇の周囲眉毛等に火傷がある他何らの外傷なく、全く生けるが如くであった」[18]
  24. ^ 大阪朝日新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「六日は郵便物が一通もなかったのですが習慣として飛行郵便物のない時でも行李は毎時空中輸送することにしています」[13]
  25. ^ 神戸新聞1926年(大正15年)4月7日朝刊「搭載の高松、今治行き二個の郵便行嚢[注釈 24]や、渡邊飛行士が個人的に委託されていた風呂敷包と背広の洋服が黒焦げになっている」[18]
  26. ^ 大阪朝日新聞1926年(大正15年)4月8日朝刊「神戸市駒ケ林沖合で墜落した渡邊飛行士操縦の四国行郵便飛行機は海底からあげて見ると…木枠は黒く焦げたあとも見え無惨な姿となっていた」[21]
  27. ^ 大阪毎日新聞1926年(大正15年)4月8日朝刊「墜落した渡邊機機体引揚後原因調査を行った航空当局では七日午後四時墜落原因を左の如く発表した / 発動機の逆火によって火を発し燃えはじめたので、同乗者は吃驚のあまり思わず操縦装置を妨害したので、機体は自由を失い遂に斯うした悲惨事を見たものらしいが、こうした逆火事故は最近の我國飛行界では常に機體を焼く程度で着水、若くは着陸し得られるので、かかる惨死は近頃珍しいことである」[22]
  28. ^ 『日本航空史 明治・大正編』(1951年(昭和26年))「油槽から漏洩したガソリンが同乗席の床面に流れていたのが、おりからの太陽熱に混合ガスを作り、それが何かの発作で失火したものらしく、火災と同時に渡辺氏は横滑りで着水を試みたが眼鏡をかけていなかったので炎に目つぶしされて横滑りの角度を誤まり、海面に激突したものであろうと判断された」[19]
  29. ^ 加古川市役所の公式Facebookに碑の写真が掲載されている(外部リンク参照)。
  30. ^ 「播州野歩記」内「5年ぶり4回目の高御位山」に碑文の書き起こしが掲載されている(外部リンク参照)。

出典

  1. ^ a b c d e f 『兵庫県人物事典』 下巻、のじぎく文庫、1968年、121-122頁。doi:10.11501/2974624NCID BN14034356 
  2. ^ a b c d e f g h i j 航空殉職録』 民間編、航空殉職録刊行会、1936年4月、17-20頁。doi:10.11501/1219241NCID BA34927217https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/46 
  3. ^ 「郵便飛行最初の犠牲者 二人とも上空から飛び降りて気絶のまま沈む 発見されぬ飛行機と渡邊飛行士」『大阪毎日新聞』1926年4月7日、朝刊、9面。
  4. ^ 辰巳直之「自作グライダーで滑空に成功 渡辺信二さん紹介展」『神戸新聞』2018年1月23日。2023年5月8日閲覧。
  5. ^ a b c d 志方町誌編纂委員会 編『志方町誌』志方町、1969年8月、272-273頁。 NCID BA75321236 
  6. ^ 大蔵省印刷局飛行機操縦士免状受有者」『官報』第3590号、国立国会図書館デジタルコレクション、1923年8月11日、184面。doi:10.11501/29557382023年5月8日閲覧。
  7. ^ 大蔵省印刷局飛行機操縦士免状交付」『官報』第3697号、国立国会図書館デジタルコレクション、1924年12月17日、478面。doi:10.11501/29558452023年5月8日閲覧。
  8. ^ 大蔵省印刷局飛行機操縦士免状効力制限事項拡張」『官報』第4024号、国立国会図書館デジタルコレクション、1926年1月26日、549面。doi:10.11501/29561752023年5月8日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 高橋伍郎「日本最初の滑空」『航空情報 = Airview』第32号、せきれい社、1954年6月1日、46頁、doi:10.11501/3290012ISSN 0450-6669 
  10. ^ a b 渡邊もく子「生活難と闘いながら少い収入から千円を貯金する迄の苦心 (一)千円の貯金を弟の為めに投げ出した夫婦の苦心談」『主婦之友』第10巻第2号、主婦之友社、1926年2月1日、174-176頁、doi:10.11501/10340796 
  11. ^ a b c 高橋重治『日本航空史』 乾、日本航空協会、1936年4月1日、1077頁。doi:10.11501/1222329NCID BN03585926https://dl.ndl.go.jp/pid/1222329/1/1181 
  12. ^ a b c d e 「飛行士の死体と機体発見さる 水上署、水産青年団その他協力して捜海の結果 きのう相亜いで揚る」『神戸新聞』1926年4月8日、朝刊、9面。
  13. ^ a b c 「渡邊飛行士の死体発見されず 海に落ちた四国行郵便機 捜索飛行空しく引返す」『大阪朝日新聞』1926年4月7日、朝刊、5面。
  14. ^ 「若き飛行士の霊前に燭涙は悲しく咽ぶ 空の宮様御下賜の美しい供物 逓相代理以下会葬者実に二千 渡邊二等飛行士の葬儀」『神戸新聞』1926年4月10日、朝刊、9面。
  15. ^ a b c d e f 平田五郎「郷土の先覚者 渡辺信二飛行士を偲ぶ」『志方郷』第1号、志方公民館、1989年11月1日、3-4頁。 
  16. ^ 『聖峰たかみくら』高見位神社運営委員会、1986年11月20日、6-7頁。 
  17. ^ a b c d e 「郵便飛行最初の犠牲者 二人とも上空から飛び降りて気絶のまま沈む 発見されぬ飛行機と渡邊飛行士」『大阪毎日新聞』1926年4月7日、朝刊、9面。
  18. ^ a b c d e f g h 「堺大濱の郵便飛行機野田沖合で墜落沈没 同乗していた小学校訓導の死体揚る 渡邊飛行士はいまだに判らぬ 発動機から発火した?」『神戸新聞』1926年4月7日、朝刊、9面。
  19. ^ a b c 日本航空史』 明治・大正編、日本航空協会、1951年9月、813-814頁。doi:10.11501/3444876NCID BN02654127https://dl.ndl.go.jp/pid/3444876/1/446 
  20. ^ 「郵便機墜ちて二名海中で惨死 操縦者と機体は判らず 便乗者の死体発見」『東京朝日新聞』1926年4月7日、朝刊、7面。
  21. ^ 「引揚げた滅茶々々の機体 この惨状」『大阪朝日新聞』1926年4月8日、朝刊、5面。
  22. ^ 「逆火に驚き同乗者が妨害した 近頃稀らしい出来事 郵便機墜落の原因分る」『大阪毎日新聞』1926年4月8日、朝刊、9面。
  23. ^ 航空年鑑』 昭和6、帝国飛行協会、1931年5月1日、62頁。doi:10.11501/1177942NCID BA77080775https://dl.ndl.go.jp/pid/1177942/1/44 
  24. ^ 加古川市史』 第8巻 (別編 2)、加古川市、2002年3月、342頁。doi:10.11501/9576842NCID BN01079806https://dl.ndl.go.jp/pid/9576842/1/178 
  25. ^ 村上弘「高御位今昔記(2)」『志方郷』第16号、志方公民館、1994年5月1日、4頁。 
  26. ^ 広報かこがわ No. 846” (pdf) (2011年1月1日). 2023年5月8日閲覧。
  27. ^ 「大空への夢追う大正時代の若者 加古川で渡辺信二展」『朝日新聞』2016年11月10日、朝刊(播磨)、25面。
  28. ^ 阿部牧郎「飛翔記」『別册文藝春秋』第134巻、文藝春秋、1976年9月、234-282頁。 

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