河野氏遺臣の再興のための戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:01 UTC 版)
「河野氏」の記事における「河野氏遺臣の再興のための戦い」の解説
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ2000余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で散陣していたところに夜襲を受け、火を掛けられ混乱し激戦の末に少数の加藤勢に撃破された(三津浜夜襲)。翌日にも体制を立て直した残兵が伊予国内を荒らすが、久米付近で佃十成と遭遇し合戦の上撃退され退却を繰り返す。荏原城など各地で河野氏旧臣が呼応して蜂起し篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、毛利勢は伊予国から退散。一揆勢も完全に鎮圧された。
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