河北の争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
謝玄は豫州刺史朱序に梁国を鎮守させ、自らは彭城を守り、北は河上を固め、西は洛陽の援をなし、朝廷が直接統治するところとするよう請うた。だが、朝議において、征役が長年続いている事から、守備兵を置いたならば帰還すべきであるという結論に至り、謝玄は帰還して淮陰を守り、朱序は寿春を鎮守するよう命じられた。 太元11年(386年)1月、丁零の首長翟遼が黎陽において反乱を興し、滕恬之を捕らえた。3月、泰山郡太守張願もまた郡ごと反乱を起こして翟遼に合流したので、河北は大混乱となった。謝玄はこれを自らの失態であるとして、上疏して節を返送し、解職するよう求めた。だが、詔により慰労され、淮陰に鎮するよう命じられ、朱序が代わって彭城を守った。
※この「河北の争乱」の解説は、「謝玄」の解説の一部です。
「河北の争乱」を含む「謝玄」の記事については、「謝玄」の概要を参照ください。
- 河北の争乱のページへのリンク