池田博忠とは? わかりやすく解説

池田博忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 00:01 UTC 版)

 
池田博忠
時代 江戸時代後期
生誕 享和3年3月15日1803年5月6日
死没 文久2年8月3日1862年8月27日
別名 弁之進、刑部(通称)
主君 池田斉政斉敏慶政
備前岡山藩
氏族 池田氏(長政流)
父母 父:池田博教、母:國子 (松平頼裕の娘)
兄弟 方智、静(佐々光宣室)、博忠
正室:佐喜(大久保頼郁の娘)
鉄子 (土倉一善室)、博文、壽子 (菅道定室)、祐賢
テンプレートを表示

池田 博忠(いけだ ひろただ)は、江戸時代後期の岡山藩家老。通称は弁之進、刑部。建部池田家(森寺池田家)12代当主。

略歴

10代当主池田博教の子として誕生。

文化3年(1806年)父博教が急死したとき4歳であったため。叔父池田方智が一時家督した。文政3年(1820年)2月養父方智の隠居により家督を継ぎ、岡山藩家老建部1万石の領主となる。学問を好み、歌人としても活躍した。

天保年間、建部中田の学問所の教員を改選して家中の教育を更に振興した。弘化元年(1844年)8月仕置家老となる。弘化2年(1845年)名を刑部と改める。嘉永5年(1852年)12月、幕府より備前児島洲の開墾を賞され、その責任者として時服を賜る。安政元年(1854年)下屋敷普請を担当した職人の賃金を藩が発行した銀札で支払い、翌日に銀札の切り下げ(安政の札潰れ)を行ったため非難を浴びた。

安政3年(1856年)8月隠居して嫡男博文に家督を譲る。

文久2年(1862年)没。享年60。

参考文献

  • 黒正巌著「封建社会の統制と闘争」
先代
池田方智
建部池田家(森寺池田家)
12代
1820年 - 1856年
次代
池田博文




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「池田博忠」の関連用語

池田博忠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



池田博忠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの池田博忠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS