林蝶子とは? わかりやすく解説

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林蝶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/15 22:57 UTC 版)

はやしちょうこ

林蝶子
生誕 寺西テフ
1873年[注 1]
大阪市南区[1]
死没 1945年11月10日(72歳没)
国籍 日本
宗教 仏教[1]
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林 蝶子(はやし ちょうこ。 1873年(明治6年)[注 1]-1945年(昭和20年)11月10日)は、日本の慈善家。大阪外国語学校(大阪外国語大学の前身)設立の基金を寄付した。

経歴

大阪市西区本田出身[3]。旧姓寺西テフ[4]。13歳で林家の養女となった[1]。夫である実業家林竹三郎は1888年(明治21年)8月に林家に養子に入ったのち結婚[5]、帆船を用いた回漕業から事業を拡大した。第一次世界大戦時には大阪と欧州との間の輸送を手がけ、1917年(大正6年)には2000万円の利益をあげたと言われる[4]:20

1918年(大正7年)7月12日に竹三郎が亡くなると、公益事業に寄付すべきとの遺言どおり蝶子は夫の友人であった、ときの文部大臣中橋徳五郎を訪ね、「大阪に国際人を育てる学校を」との理念のもと、1921年(大正10年)に大阪外国語大学の前身にあたる大阪外国語学校の設立のための基金として文部省に100万円を寄付した[6][注 2]。1925年(大正14年)、学校は最初の卒業生を出し、卒業生は蝶子に扇子を贈った。以降、蝶子は毎年卒業式に出席し[4]:22、11月11日の開学記念日式典にも1941年(昭和16年)に戦争で式典が中止となるまで毎年出席していた[4]:21

その他、1918年(大正7年)の米騒動が発生すると、貧民救済のためとして1万円を市に寄付、この資金は簡易食堂の整備に用いられ[8]、1920年(大正9年)に紺綬褒章を受章した[9]。1919年(大正8年)7月には市が産院設立を計画しているところへ建設資金として1万円を寄付した[10]。創設費2万9690円のうち、1万円が蝶子の寄付でまかなわれ[11]、産院は1920年(大正9年)4月1日に本庄産院として開院した[12]、これが日本初の公設産院となった。

さまざまな寄付は総額160万円に及んだ[1]。1924年(大正13年)5月には勲三等瑞宝章を授与され[1][2]、1929年(昭和4年)の昭和天皇大阪行幸の際にも拝謁した[13][14]

大阪外国語大学記念会館2階に林蝶子の顕彰銅板が保存されている。銅板は、昭和20年の大阪大空襲に焼け残り、大学の箕面移転に伴って移された[15]

著作

参考文献

  • 大阪外国語大学70年史編集委員会 編『大阪外国語大学70年史』大阪外国語大学70年史刊行会、1992年。 

脚注

注釈

  1. ^ a b 生月日は1月17日とする文献もあるが[1][2]、1924年(大正13年)の勲三等瑞宝章受章の際には9月29日生まれとされている[2]
  2. ^ 当時の100万円の価値について、宮本又次は1975年の文献で「いまの七億円にもあたるであろう」としている[4]:21。宮本は1983年の文献では「今の八億円以上にも当たる」としているほか[7]、大阪外国語大学は「現在の30~40億円にも相当しよう」としている[5]

出典

  1. ^ a b c d e f 『日本婦人の鑑』第二版改訂版、婦人評論社、1937年、41ページ。
  2. ^ a b c 「(一四)従三位勲二等子爵前田利定外三十五名(林蝶子外三名)叙勲並勲章加授ノ件」『賞勲局百年資料集 特別叙勲類纂(生存者)』上、総理府賞勲局編集、大蔵省印刷局、1981年、524-527ページ。
  3. ^ 高原護郎編纂『本田地誌』本田教育後援会、1933年、166-167ページ。
  4. ^ a b c d e 宮本又次「大阪女傑論―とくに林蝶子の場合―」『大阪春秋』第8号、大阪春秋社、1975年、12-28ページ。
  5. ^ a b 大阪外国語大学, p. 10.
  6. ^ 「大阪外大 阪大と来月統合 懐深い学風惜しむ 司馬さんら多彩なOB」『産経新聞』2007年9月28日付大阪本社夕刊1面。
  7. ^ 宮本又次『大阪経済人と文化』実務出版、1983年、42ページ。
  8. ^ 牧英正「大阪市の米騒動(2完)――大阪市公文書館の資料から――」『大阪の歴史』第38号、大阪市史編纂所編集、大阪市史料調査会、1993年、89, 100-102ページ。
  9. ^ 『紺綬褒章名鑑(自大正八年至昭和十六年)』総理府賞勲局編集、大蔵省印刷局、1986年、36ページ。
  10. ^ 大阪市保育部編『大阪市立産院概要』昭和12年。
  11. ^ 大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑(大正拾年)』同人社書店、1921年、63-64ページ。
  12. ^ 東尾真三郎・水川直蔵・真銅捨三・岩田亀三良『大大阪物語』東洋図書、1935年、227ページ。
  13. ^ 「輝く二人の女性 拜謁の光榮に浴して」『大阪毎日新聞』昭和4年6月5日付2面。
  14. ^ 新聞集成昭和編年史 1989, pp. 647.
  15. ^ 大阪外国語大学, p. 5.

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