東条行長
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 慶長13年9月6日(1608年10月14日) |
戒名 | 宗光[1] |
官位 | 紀伊守、民部卿法印 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 三好氏→里見氏→豊臣秀吉→徳川家康 |
氏族 | 東条氏 |
父母 | 父:東条高秀 |
子 | 長頼、安長 |
東条 行長(とうじょう ゆきなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。河内国平島城主。
略歴
東条高秀の子として生まれる。はじめ三好氏に属したが、その後里見氏、次いで羽柴秀吉に仕えて馬廻となる[2][3]。
天正13年(1585年)の四国征伐では羽柴秀長に属し、阿波国木津城主で一族の東条関兵衛を説得し、降伏させた[2][3]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯[2][3]。後に秀吉の勘気を被り追放されるが、その後徳川家康に仕えて 大和国吉野郡で1,000石を知行し、晩年は家康の談判衆に加えられた[3]。
脚注
参考文献
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年、992頁 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、165頁。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、534頁。ISBN 978-4404017529。
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