本隆寺
本隆寺
本隆寺
本隆寺
本隆寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/26 08:14 UTC 版)
本隆寺 | |
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本堂 |
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所在地 | 京都府京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330 |
位置 | 北緯35度1分54.3秒 東経135度44分47.4秒 / 北緯35.031750度 東経135.746500度座標: 北緯35度1分54.3秒 東経135度44分47.4秒 / 北緯35.031750度 東経135.746500度 |
山号 | 慧光山 |
宗派 | 法華宗真門流 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 1488年(長享2年) |
開山 | 日真 |
正式名 | 慧光無量山本妙興隆寺 |
札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
文化財 | 本堂、祖師堂、法花玄論(重要文化財) ほか |
法人番号 | 2130005002282 |
本隆寺(ほんりゅうじ)は、京都市上京区にある法華宗真門流の総本山。山号は慧光山。塔頭が8院ある(是好院、玉樹院、本城院、正寿院、玉峰院、本法院、宣妙院、慶成院)。
概要
日真は妙本寺の日具に師事するが、法華経の解釈について論争があり、妙本寺を出て、本隆寺を建立した。天明の大火により、本堂・祖師堂・宝庫は焼失を免れ「不焼寺」という異名を持つ。無外如大尼が悟りを開いたという「千代野井」がある。
歴史
寺伝によれば、長享2年(1488年)、日真により四条大宮に建立された。なお、同年、六角西洞院に草庵として建立され、翌延徳元年(1489年)、四条坊城に移ったとする異説もある[1]。寺は天文5年(1536年)、天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。その後、天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、同年、本隆寺は杉若若狭守邸跡の現在地に再建された[2]。
現存する本堂は明暦3年(1657年)の再建で、入母屋造、本瓦葺きの七間堂である。祖師堂(寄棟造、本瓦葺)も本堂と同じ頃の建立とみられる。
西陣では享保15年(1730年)と天明8年(1788年)に大火があり、本隆寺も一部類焼した。天明8年(1788年)の天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが本隆寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。このことから「焼けずの寺」の別称がある。
文化財
- 重要文化財(国指定)
- 法花玄論 10巻
- 法華経(開結共)(金銀箔散料紙)10巻
- 本堂(附 宮殿2基、廊下) - 明暦3年(1657年)再建
- 祖師堂(附 宮殿2基)
年中行事
- 国祷会(法華八講) - 1月1日から8日
- 節分会法要 - 2月3日
- 日蓮聖人御降誕会 - 2月16日
- 彼岸会法要 - 3月
- 開山忌法要 - 4月11・12・13日
- お千度法要 - 6月16日
- お盆会施餓鬼法要 - 8月16日
- 彼岸会法要 - 9月
- 日蓮聖人ご命日法要 - 10月12・13日
所在地
京都府京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330
交通アクセス
脚注
参考文献
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂出版、1984
外部リンク
固有名詞の分類
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