木下茂 (貿易商)
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きのした しげる 木下 茂 | |
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生誕 | 1899年5月11日 |
死没 | 1967年9月9日(68歳没) |
住居 | 千葉県船橋市山野町 |
国籍 |
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出身校 | 口名田村小学校高等科 |
肩書き | |
親戚 | 安野譲(母方親戚) |
栄誉 | |
木下 茂(きのした しげる)は京都府綾部市域の出身。岩井商店(後の双日)での勤務を経て木下商店を創業する。同社を国内第一位の鉄鉱石輸入商社に成長させ、日本貿易会理事などの要職を歴任した。
生涯
士族・木下運一郎と久美の長男として1899年(明治32年)5月11日に生まれる。木下家は山家藩藩主・谷家の一門[注 1]。幼いころに両親が離縁し母が再婚した為、子が無かった伯母・弥那(みな)の家[注 2]で養育された。1913年(大正2年)福井県口名田村小学校高等科を卒業すると、中学校の校長も兼任していた伯父・小谷に進学を勧められたが、一年でも早く社会へ出て仕事を覚えたいとこれを断ったとされる。翌1914年(大正3年)母方の伯父・安野譲を頼って大阪へ出て岩井商店の見習社員となる[注 3]。小樽の出張所などで経験を積んだ後、1920年(大正9年)系列会社の大阪鉄板へ出向。1922年(大正11年)8月、幼年時に離別していた父・運一郎が死去し、茂は弱冠23歳ながら弔問の際に香典として300円(岩井商店五等社員の月給が当時30から40円ほど)を渡したとされる[注 4]。
1928年(昭和3年)11月、茂は函館出身で大阪で香料問屋を開いている村山六郎の妹・トヨと結婚したが、僅か3年後の1931年(昭和6年)11月に急性腸チフスで亡くしている[5]。翌1932年(昭和7年)7月、当時金物部の次長だった茂はおよそ18年間勤めた岩井商店を離れ、社員2名の鉄鋼問屋として独立。京橋区木挽町に「木下商店」の看板を掲げた。同年8月に梅岡巳之吉商店の長女・千代子と再婚[注 5]。岩井商店時の人脈を活かした商売は徐々に軌道に乗り、1934年(昭和9年)11月には資本金50万円で株式会社に改組。京橋区宝町に社屋を構えた[6]。
第二次大戦後の財閥解体は一介の鉄鋼問屋だった木下商店にとって大きな好機であり、八幡製鉄及び富士製鉄の指定問屋の地位を得ることに成功した。関西では関西五綿と呼ばれた繊維系大手商社が従来強かったが、鉄鋼業界の進捗が目覚ましかったことも茂に有利に働いた。1951年(昭和26年)木下商店はフィリピンのララップ鉱山の開発に着手し、1955年には180万ドルの融資と引き換えに独占契約を結ぶ[7][注 6]。札幌、大阪、八幡に支店を持ち、1952年(昭和27年)にはアメリカ法人の米国木下商店を設立しその社長も兼任。さらに翌年は江東天然瓦斯工業を設立し代表取締役となる。木下商店は政府筋との太いパイプがあったとされ、戦後賠償の一環として日本からインドネシアに提供することとなった船舶を取り扱い大きな利益を得たが、1959年(昭和34年)この件に関する贈賄疑惑が大きな問題となる[注 7]。
翌1960年、組織を見直し鉄鋼部門を中心に木下産商を新設[注 8]。米国、ドイツ、豪州にも現地法人を作った。従業員は二千人近くに増え、1960年(昭和35年)の売上高は1459億円[注 9]に達し日本最大の鉄鋼商社となる。1961年8月に日邦汽船の会長、1962年2月には新和海運の相談役に就任。同年8月には木下産商の会長に就いた[8]。茂は経団連評議員、日本船舶輸出組合理事、日本鉄鋼製品倶楽部理事長のほか、東洋農礦器及び東洋製線社長、九州石油社長など多くの機関や企業で役員などを歴任[13]。取扱い品目も鉄鉱石や原油のほか、繊維製品に機械や農水産物と次々拡充する[14]。総合商社化を進め好調かに見えた木下産商だったが、その急成長ゆえに十分な人材の育成が追いついておらず、そこへ業界全体の生産過剰による鉄鋼不況が直撃して身動き取れない状況に追い込まれた[注 10]。結果、1965年に三井物産へ吸収合併[注 11]。茂は1967年(昭和42年)9月9日に千葉市内の病院で死去、築地本願寺にて告別式が行われた[1]。
親族
- 安野譲 - 母方(東条家)の遠縁とされる。岩井財閥の大番頭として、関西ペイントの初代社長など傘下企業の役員を歴任した。
- 東条義門 - 母・久美の祖父であり茂の曾祖父にあたる。小浜の妙玄寺住職であり国学者。動詞・形容詞の活用を現在知られる形にまとめた。
脚注
注釈
- ^ 山家藩の初代藩主・谷衛友の四人の子の一人が家祖とされる。木下家は綾部広瀬に約百坪の本屋敷があったが、茂が生まれた頃の一家は尼崎の藩屋敷にあった。家格は高くても禄高は僅かであり、藩解体時の財産分与も少なく明治維新後の生活は厳しかった[2]。
- ^ 夫は小浜にある浄土真宗の西広寺住職・小谷真了であり、弥那と久美の実家は小浜の妙玄寺。母・久美は離縁後、滋賀県の虎姫村に嫁ぎ女子を2人産んでいる[2]。
- ^ 当時の大阪本社はモダンな二階建ての西洋建築で、茂の入社翌年には大阪の商社として初めてニューヨークに支店が開設された[3]。岩井の社員教育は厳しく、一日の仕事が終わってから土佐堀のYMCAに通い勉強する日々が続いた。
- ^ 維新後京都で巡査となった茂の祖父・則道。父・運一郎もまた巡査となり、上六人部村生野の里の駐在所に勤めた。その近く、萩原の宿で旅館を経営していた尾松仙右衛門の一人娘・喜乃との間に武夫が生まれたが、家格が合わない等の理由で木下家から認められず、運一郎の嫁は東条久美と決まった。茂が生まれたものの、体調を崩して退職すると久美と離縁。運一郎は上六人部の実家に戻っていた喜乃と武夫と共に暮らした。なお異母兄の武夫は茂の12歳年上で、大阪の商店に勤めたが肺結核となり24,5歳で早世している[4]。
- ^ 千代子は茂の6つ下で1905年4月生まれ。家族は他に長女・淳子(1933年11月生、国府台女子学院卒)、長男・広(1935年10月生、東洋大卒、富士車輌勤務)、二女・和枝(1938年7月生、立教大卒)、三女・典子(1940年10月生)、四女・周子(1943年7月生)がいる。長女は江商社員の那須良三に嫁ぎ、ニューヨーク支店勤務に帯同した[2]。
- ^ 茂は1956年(昭和31年)に市場調査のため渡米、翌年は鉄鋼使節団としてカナダ各地も視察した。同年10月にはベルギーの首都ブリュッセルで開催された金属問屋団体の国際会議にも出席している[8]。
- ^ 女好きで知られたインドネシア大統領のスカルノには当時日本の商社が手配した三人の女性がいると言われ、そのうちの一人・金勢さき子を送り込んだのが木下商店だったとされる。1958年11月にインドネシアへ渡りスカルノの愛人の一人となったが、東日貿易が送り込んだ根本七保子にスカルノの寵愛を奪われ1959年10月に自殺を図った[9][10]。
- ^ 資本金は20億円。八幡製鉄、富士製鉄、富士銀行、三菱銀行が2億円ずつ出資している。木下商店は関連会社や不動産の管理会社として残した[11]。
- ^ この売上高は三井物産の3.1倍、茂の古巣である岩井産業の2.6倍に当たる[7]。鉄鉱石の輸入量として業界第一位であり、そのシェアは国内全体の20%を超えていた[12]。
- ^ 鉄鋼は相場変動の激しい商品であり、古くからの総合商社なら他の分野で補填もできるが、専門商社から総合商社へと移行し始めたばかりの木下産商はまだ鉄鋼への依存度が大きかった。また社員の大半が20代の営業職で 経験豊富な中間管理職に乏しく、取引先や子会社への融資の焦げ付きも多かった。1964年8月、同社と深い関係にあった八幡製鉄より三井物産へ、何とか救済できないかとの話が入るが、その後の財務調査で事業継続困難と判断される[12]。
- ^ 当初50億円と言われていた負債が実際は100億円を超えていたことが合併交渉の途中で判明。そこで三井物産は健全資産だけを継承し営業権を譲渡するという形に合併条件を急遽変更して乗り切った。
出典
- ^ a b 「木下茂氏 訃報」『朝日新聞』1967年9月10日、東京版、朝刊15頁。
- ^ a b c 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、51-58頁。NDLJP:1359938/31。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、70-72頁。NDLJP:1359938/41。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、125-136頁。NDLJP:1359938/68。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、209頁。NDLJP:1359938/110。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、223頁。NDLJP:1359938/117。
- ^ a b 『経済時代』26 (6)、経済時代社、1961年6月、56-57頁。NDLJP:2203840/31。
- ^ a b 『大衆人事録』(第23版 東日本篇)帝国秘密探偵社、1963年、274頁。NDLJP:3012270/139。
- ^ 栃窪宏男『二つの祖国を生きた:続・日系インドネシア人』サイマル出版会、1983年9月、212-214頁。NDLJP:12260397/118。
- ^ 藤原弘達『弘達エッセンス』 4 地球を翔ける、講談社、1984年5月、250-254頁。NDLJP:12239727/128。
- ^ 『日本経済のうごき』88号、政治経済研究所、1960年12月、7頁。NDLJP:2279444/5。
- ^ a b 『挑戦と創造:三井物産100年のあゆみ』三井物産、1976年7月、232-234頁。NDLJP:11950889/129。
- ^ 『大衆人事録』(第22版 東日本篇)帝国秘密探偵社、1962年、253頁。NDLJP:3012267/136。
- ^ 『化学工業会社録』(昭和38年版)化学工業日報社、1963年、638頁。NDLJP:2479270/394。
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