朝日岳城・栂牟礼城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:33 UTC 版)
「豊薩合戦」の記事における「朝日岳城・栂牟礼城の戦い」の解説
日向路から豊後に攻め入った家久軍の最前線である朝日岳城を守るのは大友氏の重臣である柴田紹安であったが、この紹安は戦わずして降伏した。このため、佐伯惟定(惟直の子)の栂牟礼城が最前線となり、その惟定は11月4日に八幡山で伊東家客将・山田宗昌の支援を受けて家久軍と野戦で戦い、兵力で不利にも関わらず奮戦し勝利した(堅田合戦)。大友氏では戦わずして降伏した柴田紹安に対して佐伯惟定を差し向け、また家久も紹安の翻意を疑って重用せず、紹安が居城の星河城に援軍を差し向ける要請をしても応じなかった。もともと、島津氏への降伏自体が紹安の単独行動だったようであり、12月4日に佐伯惟定に内応した武将によって星河城は落城して柴田一族は殺戮された。紹安は援軍を送らなかった家久を恨み、島津氏に叛旗を翻したが、すぐに鎮圧されて殺された。
※この「朝日岳城・栂牟礼城の戦い」の解説は、「豊薩合戦」の解説の一部です。
「朝日岳城・栂牟礼城の戦い」を含む「豊薩合戦」の記事については、「豊薩合戦」の概要を参照ください。
- 朝日岳城栂牟礼城の戦いのページへのリンク