曾我兄弟の母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:22 UTC 版)
曾我兄弟の伝承を最もよく伝える『曽我物語』には兄弟の生母である河津祐泰(祐通)の妻(河津の女房/曾我の女房)が登場する。 河津祐泰との間には祐成・時致と、祐泰の死後に生まれた三男がいた。彼女は祐泰が工藤祐経によって討たれると父の仇を討つよう幼い兄弟に言い含め、生まれたばかりの遺児を祐泰の弟・伊東祐清に預けた。当初は出家しようと考えていたものの義父・伊東祐親の説得に従って祐泰の従兄弟にあたる曾我祐信に後妻として嫁ぎ、三人の男子を儲けた。その後伊東氏は没落し、曾我氏は工藤氏ともども源頼朝の御家人となった。そのため曾我氏に迷惑のかかる仇討ちは諦めており、再三兄弟に仇討ちの翻意を促したが、結局兄弟は仇討ちを達していずれも死亡した。母は兄弟を曾我の地で葬り、祐成の妾だった虎御前とともにその菩提を弔って仇討ちの7回忌の日に死去した。 『曽我物語』では曾我兄弟の生母の名を伝えていないが、江戸時代中期ころまでには満功の名が定着したようで、享保9年(1724年)初演の歌舞伎『嫁入伊豆日記』を始めその名が充てられている。
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