斎藤弥三郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 斎藤弥三郎の意味・解説 

斎藤弥三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 06:57 UTC 版)

 
斎藤 弥三郎
生誕 未詳
死没 未詳
別名 諱:憲実、憲次
主君 武田信玄上杉輝虎(謙信)
氏族 吾妻斎藤氏
特記
事項
斎藤憲広の甥
テンプレートを表示

斎藤 弥三郎(さいとう やさぶろう)は戦国時代の武将。上野国吾妻郡の国衆。岩下城主。諱は憲実、憲次などとされる。斎藤憲広の甥にあたる。

生涯

弥三郎は戦国期に吾妻郡に勢力を張った吾妻斎藤氏の一族で、岩下城を本拠とする岩下斎藤氏の当主。

吾妻斎藤氏は岩下斎藤氏と嶽山城を本拠とする嶽山斎藤氏の二派に分かれていたが、永禄3年(1560年)に長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻で岩下斎藤氏が攻められ、嶽山斎藤氏の斎藤憲広が代わりに台頭してきたという。翌4年(1561年)末から武田氏による西上野侵攻が開始されると、憲広ら吾妻郡の国衆は武田氏に従属した[1]

同6年(1563年)に憲広が武田氏から離反すると、弥三郎はこれに同調せず海野幸光輝幸兄弟と共に武田氏に帰参した。『加沢記』にはこの際に弥三郎が憲広の籠城する岩櫃城を乗っ取ったとしているが、当時岩櫃城が存在するかどうかを焦点としてこの内容の信憑性には諸説ある[2]

その後は岩下城を本拠とする国衆として武田氏に従属していたが、同8年(1565年)2月までに武田氏から離反し、憲広の子・城虎丸が籠る嶽山城に籠城した。嶽山城は同年11月に真田幸綱によって攻略され、弥三郎・城虎丸らは没落した。

脚注

  1. ^ 久保田順一「吾妻斎藤氏と岩下領・嶽山領」『戦国上野国衆事典』戎光祥出版、2021年。 
  2. ^ 黒田基樹「斎藤弥三郎」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。 

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  斎藤弥三郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「斎藤弥三郎」の関連用語

斎藤弥三郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



斎藤弥三郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの斎藤弥三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS