撃剣叢談(寛政2年(1790年)) の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 22:30 UTC 版)
「善鬼」の記事における「撃剣叢談(寛政2年(1790年)) の記述」の解説
御子神典膳は一刀斎の随一の門弟であるが、同じく一刀斎の門弟に善鬼というものがいた。善鬼は典膳さえいなければ自分に敵う者はいないと思っていたため常に両者は険悪であったというが、一説には善鬼は典膳以上の高弟で一刀斎の唯授一人の秘太刀を先に伝えられていたといい、また他の説では互いに先に秘太刀を得たいと願っていたために不和であったともいう。終には小金原において両者は決闘を行い、敵わないと見た善鬼はいったん逃走したが追い詰められ、側にあった大きな瓶で典膳に打ちかかった。典膳はすかさず善鬼の頭を瓶ごと斬りつけ、善鬼は典膳の手の下で絶命した。勝った典膳はこの刀を瓶割と名付け、それ以降小野家代々の家宝とされた。
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