承応事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 歴史民俗用語 > 承応事件の意味・解説 

承応事件

読み方:ジョウオウジケン(jououjiken)

承応元年9月発覚した戸次庄左衛門主謀者とする浪人騒動


承応の変

(承応事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/10 17:44 UTC 版)

承応の変(じょうおうのへん)は、慶安5年9月13日1652年10月15日)に起こった事件。戸次庄左衛門の乱承応事件[1]とも。

概要

浪人軍学者別木(戸次)庄左衛門らが、崇源院徳川秀忠の正妻)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、幕府老中たちを討ち取ろうと計画した[1][2][3]

しかし、一味の一人、土岐の弟を養子にしていた長嶋刑部[注 1]が老中・松平信綱に密告したため、9月13日、別木らは町奉行に捕えられた[1][4]拷問の後、同年9月21日、一味は江戸引廻の上、浅草にされた[1][4]

備後福山藩士で兵法家の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら通報しなかった罪で、同日、切腹した[2]。石橋は別木に軍学を教えていた[4]。また、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部(山本勘助の孫)も、別木に軍学を教えていたことから、責任を問われ、自害した[4]

慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した[1]

なお、事件から5日後の9月18日に承応元年と改元されており、事件の決着がついたのが改元後にあたるため、承応の変もしくは承応事件といわれるようになった。

関与した浪人など

[1]

  • 別木(戸次)庄左衛門(『江戸幕府日記』では、庄右衛門) - 松平但馬守直富の旧臣。元・越前大野藩[3]
  • 林戸左衛門(林戸右衛門とも[3]) - 別木の弟。『日本大百科全書』では「軍学仲間」としている[4]
  • 土岐与左衛門(与右衛門とも) - 北条氏重の旧臣
  • 三宅平六 - 同上
  • 藤江又十郎 - 森左京の旧臣

脚注

脚注

  1. ^ 長島刑部左衛門、あるいは、永嶋刑部左衛門嘉林よしもととも[1]

出典

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「承応事件」の関連用語

1
18% |||||

承応事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



承応事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの承応の変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS