承応の鬩牆に関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 01:15 UTC 版)
1663年(承応2年)、西本願寺能化・西吟と肥後国延寿寺・月感との間に宗論が起こった。月感の姻戚であった准秀は彼を支持して『安心相違覚書』を著したところ、これに対して西本願寺門主・良如が『破安心相違覚書』を著して准秀を批判する事態に発展し、両者は江戸幕府の裁判による裁決を求めた(承応の鬩牆)。 最終的に幕府の裁定により、准秀は越後国今町に流罪とされたが、1658年(万治元年)に赦免された。1660年11月14日(万治3年10月12日)、54歳で死去した。
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