戦場に死す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 05:36 UTC 版)
同年10月に帰国し、1922年(民国11年)の(第2次回復)国会で衆議院議員に再選され、憲法起草委員会委員に補選された。しかし、翌年の曹錕賄選に反発して上海へ逃れた。1924年(民国13年)、福建私立法政学院を改組した福建大学(現福建師範大学)で校長に就任する。また、『日本人に告ぐ』(原題:『敬告日本人』)という書を公表し、日本の対中政策を批判した。その翌年には、段祺瑞の執政政府でやはり憲法起草委員会委員を務めている。 同年11月、奉天派の軍人郭松齢が、奉天派指導者の張作霖に対して兵変を起こした。この時に郭は、林長民を秘書長として招聘し、林もこれに応じて随従を承諾した。しかし、郭は張の反撃に遭って敗北してしまう。12月24日、林もまた奉天省新民県(現在の新民市)小蘇家屯で乱戦に巻き込まれ、流れ弾を受けて戦死した。享年50(満49歳)。
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