成蟜
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/05 04:26 UTC 版)
姓名 | 嬴成蟜 |
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時代 | 戦国時代 |
生没年 | 生年不詳 - 秦王政8年(前239年) |
本貫・出身地等 | 秦 |
職官 | 将軍〔秦〕 |
爵位・号等 | 長安君〔秦〕 |
家族・一族 | 父:荘襄王 母:韓国夫人[1] 兄:始皇帝 子:嬴嬰[2] |
成蟜(せいきょう)は、中国戦国時代末期の秦の公子。秦王政(後の始皇帝)の弟。長安君に封ぜられたがのちに謀反を起こし、討伐された。
生涯
秦王政8年(紀元前239年)、成蟜は軍を率いて趙を攻撃したが、そのとき屯留と蒲鶮の兵卒を従えて謀反を起こしたとされる。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留の壁塁の内で自殺したとされる[3]。軍吏はみな斬首され、反乱兵たちの遺体は辱められた。その地の民は臨洮に遷された。
生母と子女
生母については、父の荘襄王が邯鄲を脱出して秦に帰国した際、邯鄲に残した趙姫と嬴政の無事は不明であり、荘襄王が生母である夏姫を安心させるために娶った韓出身の夫人との間に生まれたと唱える説がある[1]:62。
また、上記の説を唱える歴史学者の李開元の説では秦の最後の君主である子嬰は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれた彼の子であると言う[2]。
脚注
参考文献
- 『史記』秦始皇本紀
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