御牧景則とは? わかりやすく解説

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御牧景則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 00:59 UTC 版)

 
御牧 景則
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年(1600年
別名 勘兵衛(通称
主君 織田信長明智光秀豊臣秀吉秀頼
氏族 御牧氏
父母 父:御牧益景
兄弟 景重、景則
信景(四手井清庵)
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御牧 景則(みまき かげのり)は、安土桃山時代武将

略歴

御牧氏は山城国久世郡御牧村豪族。御牧益景の次男として誕生し、一族の御牧摂津守が隠居すると、その名跡を継ぐ[1]

天正元年(1573年8月2日細川藤孝三淵藤英とともに淀城攻撃に参加した(第二次淀古城の戦い[1]

天正3年(1575年)から翌天正4年(1576年)にかけて大和国で活動していたが、のちに明智光秀の与力となった[1]

天正10年(1582年)の山崎の戦いに従軍し、兄・景重は戦死するが、景則は豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵においては肥前国名護屋城の普請を行った他、寺沢広高とともに同城の裏門の警固を担当した。のちに山城国久世郡市田村に1,000石を与えられ、検地奉行として山城国の検地を行った[2]

慶長2年(1597年)4月には徳川家康を自邸に招いて饗応を行っている[3]

慶長5年(1600年)の春に死去。遺領は息子の信景が継ぐが、同年の関ヶ原の戦いで失領した[3]

人物・逸話

  • 景則は稀に見る清廉潔白の士で、他の検地奉行が職権を笠に着て賄賂を受け取ったのに対し、付け届けはおろか、一瓶の酒、一籠の魚も断固受け付けなかったという[3]
  • 公家西洞院時慶と親交があった[3]

脚注

  1. ^ a b c 谷口克広『織田信長家臣団人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年11月1日、470頁。ISBN 9784642014571 
  2. ^ 阿部猛西村圭子 編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、751頁。ISBN 4404017529 
  3. ^ a b c d 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年7月20日、240-241頁。 



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