得成寺 (富岡市)とは? わかりやすく解説

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得成寺 (富岡市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 04:38 UTC 版)

得成寺
所在地 群馬県富岡市相野田245
位置 北緯36度16分53.8秒 東経138度55分59.6秒 / 北緯36.281611度 東経138.933222度 / 36.281611; 138.933222座標: 北緯36度16分53.8秒 東経138度55分59.6秒 / 北緯36.281611度 東経138.933222度 / 36.281611; 138.933222
山号 小町山
宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王
創建年 平安時代前期?
開基 小野小町
中興年 貞応元年(1222年)【第1次】、江戸時代中期【第2次】
中興 心全律師【第1次】、亮賢【第2次】
文化財 木造不動明王坐像(群馬県指定重要文化財)
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得成寺(とくじょうじ)は、群馬県富岡市にある真言宗豊山派寺院

歴史

平安時代前期、小野小町の開基という。小町は晩年、余生を送るために故郷の出羽国(現・秋田県)に向かっていた。ところが当地で病を得て、庵でしばらく療養していた。その庵が当寺の起源であるといわれている。当地には元々「小野」という豪族がおり、それが小町開基説を生んだ理由ともいう[1]

1222年貞応元年)、心全律師は高野山金剛峯寺より不動明王を勧請して寺院として整備した[1]

江戸時代中期、亮賢により中興された。亮賢は当寺で出家し、大和国(現・奈良県)の長谷寺で仏法を学んだ。そして江戸幕府第3代将軍徳川家光側室お玉の方(後の桂昌院)より加持祈祷を依頼され、男子を授かった。その子は後の第5代将軍徳川綱吉となった。これにより亮賢の名声は高まり、出身の寺である当寺も寺領30が与えられることになった[1]

文化財

  • 木造不動明王坐像(群馬県指定重要文化財 平成11年4月30日指定)[2]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年、38-39p
  2. ^ 群馬県内の県指定文化財一覧群馬県

参考文献

  • 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年



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