張仲武
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張 仲武(ちょう ちゅうぶ、生年不詳 - 849年)は、唐代の軍人。盧龍軍節度使。本貫は幽州薊県。
経歴
張光朝の子として生まれた。若くして『春秋左氏伝』に通じた。文筆を捨てて雄武軍使となった。会昌元年(841年)、陳行泰が盧龍軍節度使の史元忠を殺害して、留後をつとめたが、まもなく陳行泰も次将の張絳に殺害された。仲武が軍吏の呉仲舒を長安に派遣して盧龍軍の乱を討つよう上表させると、武宗は宰相を派遣して事情を問わせ、呉仲舒は仲武に混乱を収拾させるよう求めた。李徳裕が仲武を推挙したため、武宗はこれを許し、仲武を兵馬留後に任じ、順宗の子の撫王李紘に節度使を遥領させた。会昌2年(842年)、仲武は盧龍軍節度使に進み、検校工部尚書・幽州大都督府長史となり、御史大夫を兼ね、蘭陵郡王に封じられた[1][2]。
回鶻の特勤の那頡啜が赤心宰相の一族7000帳を擁して、東方の薊州に迫った。仲武はその弟の張仲至と裨将の游奉寰・王如清らを派遣して、精鋭の兵3万人を与えてこれを撃破させた。前後して回鶻の王侯貴族1000人あまりを捕らえ、3万人を降し、多数の牛馬やラクダを鹵獲した。従事の李周瞳や牙門将の国従玘を相次いで長安に派遣して、鹵獲品を貢献させた。仲武は武宗により検校兵部尚書を加えられ、東面招撫回鶻使を兼ねた。先だって奚や契丹には回鶻の監護使が置かれて、歳貢を監督し、唐に対抗させていた。仲武は裨将の石公緒らを派遣して奚・契丹を説得し、800人あまりの回鶻を殺させた。また回鶻は五原に入ろうと、宣門将軍ら47人を派遣して、盧龍軍に友好を求め、ひそかに隙をうかがわせた。仲武はその部下を賄賂で籠絡し、陰謀の全てを聞き出すと、回鶻の使者を留めて長逗留させ、回鶻の軍行動の期を失わせた[3][4]。
仲武は回鶻討伐の功績を紀念するべく、薊県に「紀聖功銘」を立てたいと上表し、認められて李徳裕の銘文が刻まれた。大中元年(847年)、奚北部および山奚を撃破した。仲武は官を歴任して司徒・同中書門下平章事に進んだ[5][6]。大中3年(849年)5月、死去した[7][8]。諡は荘といった[9][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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