広福寺 (土岐市)とは? わかりやすく解説

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広福寺 (土岐市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 01:13 UTC 版)

 廣福寺
所在地 岐阜県土岐市土岐津町土岐口974-1
位置 北緯35度20分55.7秒 東経137度10分40.3秒 / 北緯35.348806度 東経137.177861度 / 35.348806; 137.177861座標: 北緯35度20分55.7秒 東経137度10分40.3秒 / 北緯35.348806度 東経137.177861度 / 35.348806; 137.177861
山号 寿門山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 寛永13年(1636年)
開山 清巌宗源
開基 妻木頼利
中興年 明治24年(1891年
札所等 中部四十九薬師霊場三十二番
法人番号 3200005008437
広福寺
広福寺 (岐阜県)
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廣福寺(こうふくじ)は岐阜県土岐市土岐津町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は寿門山。中部四十九薬師霊場三十二番。

歴史

寛永2年(1625年)に三河国挙母村雲外霄公が有志を募り、崇禅寺中興の清巌宗源に開山を請い、領主の妻木頼利に願い出て許され、土岐口の大沢に堂宇を建立し慈門山 廣徳寺として開山し、崇禅寺二世の見龍宗潭が住持となり7石2斗の寺領を付与された。

寛永4年(1627年)、廣徳寺三世の光益長公寿陽山 保福院を開山した。

承応2年(1653年)10月1日(11月20日)、妻木頼利は江戸で病死し、法号を「廣徳院殿即心安休大居士」とした。

万治2年(1659年)、妻木氏が無嗣のため大幅減禄となり寺領を失った。

寛文9年(1669年)2月、廣徳寺が、土岐口の大沢から辛沢へ移転した。

元禄8年(1695年)9月、廣徳寺は、土岐郡三十三所巡礼の十五番札所となった。

明治24年(1891年)、岐阜県庁の許可を得て、廣徳寺と保福院が合併し、寿門山 廣福寺に改号した。

明治34年(1901年)1月4日、旧廣徳寺の本堂と庫裏が火災で焼失した。

明楽川を挟んだ高山地区に住んでいた吉田鎗吉は、炎上している廣福寺の中へ飛び込み、本尊を厨子ごと担ぎ出して救った。以後人々は彼を「観音の鎗さ」と呼んだと伝わる。

当地は、年々水害を蒙り、すこぶる偏隅で信徒の参詣や布教にも不便を感じていたため、薬師堂のある現在地に移転することに決まり、薬師堂を境内仏堂として合併することを願い出た。

大正7年(1918年)4月、主管官庁の許可を得て、大正9年(1920年)6月、現在地に本堂が建立された。

本尊十一面観音のほか、左に吒枳尼天、右に薬師如来を祀っている。

境内

台地の境内は、段丘に鐘楼門を構えている。造りは一間一戸の四脚門で楼上に梵鐘が吊るされている。

この横に延命地蔵尊が祀られており、その他としては、位牌堂・成田堂・土蔵がある。

昭和56年(1981年)、鉄筋コンクリート二階建ての庫裏を新築した。多目的ホールを旨とする大広間がある。

参考文献

  • 『中部四十九薬師霊場巡礼』 p154~p157 中部四十九薬師霊場会 冨永航平 朱鷺書房 1999年
  • 『土岐市史 2 (江戸時代~幕末)』 第十五編 江戸時代の宗教 第四章 徳川幕府の神道政策 10 神社・寺院調 p374~p386 土岐市史編纂委員会 1971年
  • 『土岐津町史』



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