妻木頼利とは? わかりやすく解説

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妻木頼利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 23:26 UTC 版)

妻木 頼利(つまき よりとし、1585年天正13年)- 1653年11月20日承応2年10月1日))は、江戸時代前期7500石の交代寄合美濃国土岐郡妻木陣屋主(妻木氏第十四代目)。

妻木頼忠の子。通称、主水、権左衛門、安休。子に頼次、頼長、幸広、頼帯、女子二人(内一人が家臣塚本氏の養女となる)がいる。戒名・實照院殿即心安休居士。江戸屋敷は現・東京慈恵会医科大学の敷地内。

生涯

慶長5年(1600年)、16歳の時人質となって江戸に行き、翌年4月に妻木に帰る。

元和9年(1623年)父の死去により、家督を継ぐ。

寛永2年(1625年)に三河国挙母村雲外霄公が有志を募り、崇禅寺中興の清巌に開山を請い、領主の妻木頼利に願い出て許され、土岐口の大沢に堂宇を建立し、7石2斗の寺領を付与された。

寛永10年(1633年)に木曽三川の普請奉行を勤めた。

寛永13年(1636年)には多賀大社の造営奉行を勤めた。

承応元年(1652年)には頼利の子の妻木頼次が家督を継いだ。この時、兄弟不和により妻木騒動が起きて、弟の妻木幸広に、土岐郡大富村500石を分知し7,000石となった。

承応2年10月1日(1653年11月20日)江戸で病死し、江戸の正覚院に葬られた。法号は「廣徳院殿即心安休大居士」。

また菩提寺の崇禅寺にも墓碑が建立された。




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