幻庵との争碁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 09:30 UTC 版)
天保9年(1838年)、師の丈和が名人碁所を引退、本因坊元丈の子の丈策が家督を継ぎ、翌年に秀和が跡目となって21歳で七段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残した。またこの機に井上幻庵因碩は天保11年、名人碁所就任の願いを幕府に提出する。これに対して争碁の相手として、丈策は当主である自分でなく跡目の秀和を選び、幻庵と秀和は寺社奉行より四番の争碁を命じられる。同年11月から行われた第1局で秀和は先で4目勝ちとし、幻庵は病もあって碁所願いを取り下げる。続いて天保13年にも幻庵と秀和は2度対戦するが、秀和は先番で連勝し、幻庵は名人碁所断念に至った。 嘉永元年(1848年)、前年の丈策死去により、家督を継いで十四世本因坊秀和となる。同年11月には、安田秀策を跡目に定める。嘉永3年八段。
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