平松範忠
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時代 | 江戸時代後期→明治時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 明治22年(1889年)12月31日[1] |
改名 | 平松範忠→若江範忠 |
別名 | 葛野式部 |
氏族 | 平松家→若江家 |
父母 | 父:平松時門、義父:若江量長 |
兄弟 | 時言、範忠 |
子 | よし(杉下太郎右衛門夫人)[2]、大坪顕長[注釈 1] |
平松 範忠(ひらまつ のりただ)は、幕末の公家。平松家出身であったが、平松時門の次男(御厄介)であったため、西園寺家には家来同然のように扱われるなど、正式に平松家の人間として扱われることは少なかった。葛野式部や若江範忠とも。
概要
天保11年(1840年)に、当時の大典侍・勧修寺徳子によって稚児に命じられ、成長して退身してからは石清水八幡宮の坊官となり、その後還俗して平松家の「御厄介」となった。その後は「葛野式部」を名乗った。葛野姓は、西洞院時良の次男・勝成が称した氏である[4]。
明治5年(1872年)8月5日には若江量長の養子となっている[5]。しかし範忠は放蕩無頼の性格であり、若江薫子に虐待を加えるなどしたほか、明治7年(1874年)頃には米穀商の経営を失敗して破産宣告を受けた[6]。
明治16年(1883年)10月18日、殿掌に任命された[7]。
脚注
注釈
出典
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