平松範忠とは? わかりやすく解説

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平松範忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/13 06:37 UTC 版)

 
平松 範忠 / 若江 範忠
時代 江戸時代後期→明治時代
生誕 不明
死没 明治22年(1889年12月31日[1]
改名 平松範忠→若江範忠
別名 葛野式部
氏族 平松家若江家
父母 父:平松時門、義父:若江量長
兄弟 時言、範忠
よし(杉下太郎右衛門夫人)[2]、大坪顕長[注釈 1]
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平松 範忠(ひらまつ のりただ)は、幕末公家平松家出身であったが、平松時門の次男(御厄介)であったため、西園寺家には家来同然のように扱われるなど、正式に平松家の人間として扱われることは少なかった。葛野式部若江範忠とも。

概要

天保11年(1840年)に、当時の大典侍勧修寺徳子によって稚児に命じられ、成長して退身してからは石清水八幡宮坊官となり、その後還俗して平松家の「御厄介」となった。その後は「葛野式部」を名乗った。葛野姓は、西洞院時良の次男・勝成が称した氏である[4]

明治5年(1872年)8月5日には若江量長の養子となっている[5]。しかし範忠は放蕩無頼の性格であり、若江薫子に虐待を加えるなどしたほか、明治7年(1874年)頃には米穀商の経営を失敗して破産宣告を受けた[6]

明治16年(1883年)10月18日、殿掌に任命された[7]

脚注

注釈

  1. ^ 三男として生まれ、岐阜県吉城郡神岡町(現・飛騨市)の大坪酒造店に婿入りした[3]

出典

  1. ^ 梶原竹軒 編『若江薫子と和解女四書』香川新報社、1917年、p.9。
  2. ^ 『人事興信録 3版』人事興信所、1911年、す34頁。
  3. ^ 『日本醸造協会雑誌』第75巻第10号、日本醸造協会、1980年10月、p.777。
  4. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』(吉川弘文館、2008年)
  5. ^ 国立公文書館デジタルアーカイブ「華族平松時言叔父範忠ヲ東京府士族若江量長ノ養子トス[1]
  6. ^ 伊藤峰雲「「奇骨の歌人」若江薫子」(『日本』第16巻第11号・通巻第188号、日本学協会、1966年11月、p.39。)
  7. ^ 『官報』第101号、1883年10月27日。



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