崔無ヒとは? わかりやすく解説

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崔無ヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/29 09:09 UTC 版)

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本来の表記は「崔無」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

崔 無詖(さい むひ、? - 755年天宝14載))は、玄宗朝の地方官。本貫博陵郡安平県

楊国忠に用いられ、滎陽郡太守となったが、安史の乱において安禄山側に捕らえられ、処刑された。

経歴

長安の出身。本籍は名門の山東四姓の一つ、博陵の崔氏であった。崔無詖の父の崔従礼は韋皇后の母の兄弟にあたり、韋皇后の恩顧を被っていた中書令の蕭至忠の娘と婚姻していた。

景雲4年(710年)、韋皇后と蕭至忠が皇子の李隆基(後の玄宗)によって殺されると、坐して左遷させられた。

開元年間、益州司馬となっていた時、新都県尉の楊国忠と親交があった。後日、楊国忠に引き立てられ、陝郡太守から少府監・滎陽郡太守に就任した。

安史の乱勃発後、安禄山の軍が陳留を陥落させて、河南節度使張介然ら兵を皆殺しにした上で西進してきた。この時、兵を募って拒んだが、勢いにのる安禄山軍の喧噪に城内は震え上がり、兵は自ら城壁から墜落していったと伝えられる。

崔無詖らは捕らえられて殺された。安禄山側の武令珣が滎陽をおさえることとなった。

死後、礼部尚書を贈られ、毅勇とされている。

伝記資料

  • 旧唐書』巻百八十七下 列伝第百三十七下「忠義下・崔無詖伝」
  • 新唐書』巻百九十一 列伝第百十六「忠義上・崔無詖伝」



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