山田氏 (三宝院)
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山田氏 | |
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(家紋)
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本姓 | 清和源氏源満政流庶流 |
家祖 | 山田法橋親秀 |
種別 | 地下家 |
主な根拠地 | 山城国 |
著名な人物 | 山田定言 山田寿応院 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
山田氏(やまだし)は江戸時代の地下家。三宝院門跡坊官、諸大夫の家。飯田氏の庶流とされる[1][2]。
概要
『地下家伝』によると山田氏は「飯田別家」とされ、時期は不明だが山田法橋親秀が祖とされる。その後は法橋長順、法橋長盛、法橋長運、法橋長増と続いた。その後は天明5年(1785年)に同じく三宝院に仕えた甲村氏出身の甲村定言を当主として迎え入れた。天明7年(1787年) には息子の定明(定俊)も苗字を甲村から山田に替えることが許され、1代限りの諸大夫・坊官格ではなく、家として伝統がある山田という苗字を継承できた。定明は文化元(1804年)6月26日に亡くなり、その母の山田寿応院が家長になった。寿応院は文化4年(1808年)に養子を迎えたが、文化6年(1810年)にこの養子を離縁した。さらにその次の養子も文化10年(1814年)に「永御暇」を言い渡された。その後は岸本氏から養子が入り、為美と名乗ると同時に、寿応院が山田氏から離れて甲村氏を再興した。為美の息子は山田姓を名乗ることを許されず「岸本丹下」と名乗っていたが、寿応院が亡くなった後に山田氏の当主となり為舜を名乗った[3][4]。
系図
脚注
注釈
出典
- 山田氏_(三宝院)のページへのリンク