山田寿応院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 14:43 UTC 版)
山田 寿応院(やまだ じゅおういん)は、江戸時代の女性。山田定言の妻であり、山田氏と甲村氏の家長となった[1]。
概要
実子・山田定明が文化元年(1804年)6月26日に35歳で亡くなると、寿応院は山田氏の家長として認められた。家の存続のために文化4年(1808年)に養子を迎えたが、文化6年(1810年)にこの養子と離縁した上、その次の養子も文化10年(1814年)に「永御暇」を言い渡された。同年の10月30日に岸本氏を養子とし、正六位下・駿河守に叙任され、山田為美を名乗り当主となった。このため、寿応院は山田氏を離れ、石河勘解由の子を養子として甲村長基を名乗らせた。なお、為美の実子は寿応院の生前は岸本氏を名乗っていたものの、死後は山田氏の当主となり山田親長を名乗った[2][3]。
脚注
注釈
出典
関連項目
- 山田寿応院のページへのリンク