尚円王への謁見、島における事績
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「仲宗根豊見親」の記事における「尚円王への謁見、島における事績」の解説
「球陽(109号)」によれば、大殿には後手盛という子供がおり、大殿の死後島主となったが、琉球王府に行った帰りに久米島で死んだため、空広が島主となった。また「忠導氏家譜正統」によれば、成化年間に尚円王に謁見し、島主に任じられた。 空広のあやごには「平良の皆よ集まれ、城の皆よ集まれ、下地の皆よ集まれ、清水を飲ますよ」と歌われており、平良、城辺、下地の三部落に声をかけて井戸開掘事業を行ったものと解されている。 また「仲宗根豊見親定納相調べ琉球へ差上り候時のあやご」には「宮古の初物を大蔵に収納し琉球に収める事を空広が始めた」などと歌われており、蔵元開設の意味と解されている。空広が初めて諸村に年貢を定めた事は「家譜」にも述べられている。 また「下地橋道積上のあやご」には、下地から平良へ往還する男女が腰まで海水に浸かって難儀するのを見て、下地の者に命じて下地橋道を建設した事が述べられている。これは現在も残る。ただし実際の工事宰領は、「川充氏家譜」によれば、当時の下地地方の勢力家、川満大殿が勤めた。
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