小田切昌快とは? わかりやすく解説

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小田切昌快

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/25 02:56 UTC 版)

 
小田切昌快
時代 江戸時代前期
生誕 慶長17年(1612年
死没 貞享2年9月8日1685年10月5日[1][2]
別名 甚之助、新右衛門[1]通称
戒名 浄林[1]
墓所 神奈川県逗子市の海宝院[1]
幕府 江戸幕府御蔵奉行書院番頭奏者番
主君 徳川家光徳川家綱徳川綱吉
氏族 長谷川氏小田切氏
父母 父:長谷川長重、母:牛奥昌次娘
養父:小田切昌次[1]
兄弟 長谷川長守、昌快、某(七十郎)、女子(高林正成妻)、女子(根岸直勝妻)、女子(三枝守盛妻)[3]
昌直昌快女子(石原安昌妻)、女子(小田切昌直娘、昌次養女、昌快妻)[1]
小田切昌次養女(小田切昌直娘)[1]
昌近昌一、昌直、青木昌廉、某(弥三郎)、某(加右衛門)、女子(石原安吉妻)、女子(高林正成妻)、女子(永田正勝妻)、女子(青木又左衛門某妻)、女子(岡野重明妻)、[1]
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小田切 昌快(おだぎり まさよし)は、江戸時代前期の徳川家家臣旗本)。致仕号は松月[1]

経歴

長谷川長重の次男として生まれ、小田切昌次の養子となり、その養女を妻とした。寛永5年(1628年)、将軍徳川家光に拝謁し、同年4月14日5月17日)に大番に列す[1]。寛永7年(1630年)および翌8年、蔵米計200俵を給される[2]。寛永10年(1633年)5月19日に200石を加増され、蔵米采地に改められ相模国大住郡落幡村[2]に400石を知行し、その後御蔵奉行となった[1]慶安4年(1651年)9月29日に書院番頭に任じられ、後に奏者番を務めた[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 寛政重修諸家譜』巻第三百九十四
  2. ^ a b c 神奈川県県民部県史編集室 1983, 203頁.
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百八十六

参考文献

  • 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年。 



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