小田切昌倫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 11:29 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文9年(1669年) |
死没 | 宝暦3年12月20日(1754年1月13日)[1] |
別名 | 治大夫[1] |
戒名 | 紹蘤[1] |
幕府 | 江戸幕府 書物奉行 |
主君 | 徳川家綱 |
氏族 | 小田切氏 |
父母 | 父:小田切知義、母:高林昌近の娘[1] |
兄弟 | 女子(太田好孝の妻)、某(早世。多賀之助)、女子(平岡道弘の妻)、昌倫[1] |
妻 | 佐野政時の娘[1] |
子 | 女子(浅岡政道の妻)、女子、女子、昌行[1] |
小田切 昌倫(おだぎり まさとも)は、江戸時代中期の武士。徳川氏家臣。
経歴・人物
延宝4年6月5日(1676年7月15日)、8歳の時に徳川家綱に初めて拝謁する[1]。元禄12年12月9日(1700年1月28日)家督を継ぐ[1]。元文5年9月16日(1740年11月5日)書物奉行となり、寛延3年11月30日(1750年12月28日)老いを理由に職を辞す[1]。その際、黄金2枚を賜う[1]。
脚注
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