小子部鉏鉤
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 15:05 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動小子部 鉏鉤[1](ちいさこべ の さひち[2])は、飛鳥時代の人物。姓(カバネ)は連。
672年の壬申の乱の際、尾張国司守として大海人皇子(天武天皇)に味方したが、内乱終結後に自殺した。
出自
小子部連は小子部(子部の一つで宮中の雑務を務めた品部)の伴造家であり[3]、多氏(多臣)の一族を称した[4]。天武朝において嫡流は宿禰姓に改姓した[5]。
経歴
壬申の年(672年)の6月24日に行動を起こした大海人皇子は、挙兵して吉野宮から伊勢国に入り、27日に美濃国に移った。その日、不破郡の郡司にさしかかったころに、尾張国司守小子部連鉏鉤が2万の衆を率いて加わった。大海人皇子は鉏鉤を誉め、その軍を分けて処々の道を塞いだ。
僅かな時日で2万の兵力を動かしたことについて、後代の歴史学者は、5月に朝庭(朝廷)が山陵造営のためと称して美濃と尾張の人夫を動員し、武器を渡したこととの関係を指摘する。大海人皇子を討つために国司に用意させた兵力が、国司の判断で当の反乱に参加したとするのである。
乱は大海人皇子の勝利におわり、8月25日に重罪とされた近江朝廷の重臣が処分された。しかしこれより前に、鉏鉤は山に隠れて自殺した。大海人皇子は「鉏鉤は功ある者である。罪なくしてなぜ自殺したのか。これは陰謀があったのか」と言った。鉏鉤は近江朝と通じていたのかもしれないが、真相は不明である。
脚注
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